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Re:大変、勇気がいることだったでしょう!

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月17日(火)11時00分48秒
   田中卓先生の思出談を読みますと、左に寄らなかったために、東大史学科卒というエリートなのに就職ではずいぶん苦労なさったようです。最終的には皇學館大学の学長にまでおなりになりましたが、若いころは学界から閉め出されて大変だったようです。
 職を賭して信念を守り通したのですね。なかなか真似出来ません。
 あと矛盾を感じるのは戦後の文化勲章です。
 戦後は、左旋回して皇室を貶めた人が貰い、身体を張って皇室の名誉を守ろうとした学者が、学問的にはいくらレベルが高くても貰っていないようです。
 小渕総理のときに多少は改善されそうな気配でしたが、またダメになりました。
 恐れ多いことではありますが、私には天皇陛下のお気持ちが推し量れないでいます。
 

大変、勇気がいることだったでしょう!

 投稿者:解法者  投稿日:2009年11月16日(月)23時31分31秒
  >田中卓先生は、津田史学を批判して、「子供の火遊びにすぎない」と
痛烈に批判しておられたように記憶しております。<
 このような<硬骨漢>の方がいらっしゃったとは感服しました。

> 田中卓先生は戦後の古代史家が次々に左旋回した中で、毅然として
正統史観を守り抜いた御方で、左旋回しなかった少数の中のお一人だと、
認識しています。<
 こういう方はとても珍しいのじゃないですかね。右往左往していたのが
現状で、これもまだましな方だっただと思います。
 

オロモルフ号の航宙日誌3985『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月16日(月)12時35分5秒
  ▼昨日の蘭姫

 吐いたあとの蘭姫はあまり元気はありませんが、倒れてしまうほどではありません。
 枕が好きらしいので、もっと大きくてフカフカしたのを買ってやったところ、とても気に入って、頭をそれに乗せて寝ております。
 年を取ると、人間でも頭を上に向け続けるとか、下のものを取るとかが大変になってきます。
 犬も同様らしく、石段を登るのはいいのですが、下りるのは大変で、なかなか足が前に出ません。
 また、地表(脚の裏と同じ高さ)に水や食事の容器を置くと、そこまで頭を下げるのが大変らしく、容器の前で逡巡してしまいます。
 そこでブロックを一つ置いて、その上に水や食器を置く事にしました。そうすると楽そうです。
 万事飼い主と同じです。
 飼い主も最近では信じられないような場所で転びますが、蘭姫も、前は絶対にぶつからなかった電柱などにぶつかります。
 やれやれ・・・。

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オロモルフ号の航宙日誌3984『小学生の日本神話292』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月16日(月)12時32分49秒
  ▼『古事記』の神話 上巻 大国主神14

<二、根の堅州国を訪問8>

[承前]

 大穴牟遅神が無事だったのを知った須佐之男大神は、その次の夜には、大穴牟遅神をムカデと蜂が出る部屋に入れました。
 すると須勢理毘売が前のように、ムカデと蜂を除けるヒレ(*1)を授けました。
 それで大穴牟遅神は、無事に一夜と過ごすことができました。
 須佐之男大神による試練はまだまだ続きます。

*1:〈饒速日命〉が天神から授けられた十種神宝の中には、蜂を退治する蜂ヒレもあります。また品物ヒレという、それ以外のヒレもあります。
 古代においては、夜寝ているときに家の中に入り込んでくる蛇、蜂、ムカデなどは人々の恐怖の的であり、どうやって追い払うかに苦労しており、その苦労が神話に結実しているのだと思います。

[続く]
 

オロモルフ号の航宙日誌3983『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月15日(日)12時37分18秒
  ▼ダムの必要性

 ダム問題が政治でもマスコミでも取り上げられていますが、個々の問題ばかりで、日本全体としてのダムの必要性についてのデータとか考え方とかが無いので、全体像が浮かんできません。
 天然のダムである森林の保全や育成が重要で、そのためには森林用ロボットの開発が急務だ――くらいの事しか言えません。

▼市橋容疑者

 このニュースで一週間ほど持ちきりでしたが、それは警察からの情報が流れてから後のことです。
 後になっていろんな所に取材して「新事実」とか言っております。
 私に言わせれば、警察以上の捜索能力を発揮して、警察が発表する前に整形後の顔をスクープするとか、そういう事をやってもらいたいです。
 大勢の記者がいる筈なんですから。

▼花ユズ

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オロモルフ号の航宙日誌3982『日露戦争と無線電信84』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月15日(日)12時35分25秒
  ▼日本海海戦における三笠の無線電信機の損傷23

 山本英輔が記録した日本海海戦の無線電信(其の五)

◎日本海海戦時の無電記録

 さて、このような技術的背景をもって、山本英輔は日本海海戦時に飛び交った無電信号を最大限記録しました。
 記録は日本海海戦だけではなく厖大なものがあったらしいのですが、昭和七年末に日本海海戦の数日だけの文を別に一巻の巻物に整理装幀し、翌昭和八年初めに東郷平八郎元帥にご覧に入れたところ、たいへん懐かしがっておられ、喜んで揮毫されたそうです。
 この巻物は、いつごろどのようにしてなのかは分からないのですが(たぶんその直後だたのでしょう)、記念艦三笠に寄贈され、戦後の混乱も免れて現在でも三笠の収蔵庫に収蔵されています。
 その一部の写真が太平洋学会誌に出ておりましたので、撮影しました。
 下がその巻頭の部分です。
 これはきわめて貴重な記録です。
 まさに原資料です。
 むろん戦争のさなかの記録ですから、完全に正確かどうかは分かりませんが、山本英輔という技術にも暗号にも堪能な参謀が自ら無電機を防禦出来る場所に設備しアンテナを大砲の邪魔にならないように工夫して受信したものであり、相当な信憑性があります。

◎無電記録の引用

 さて、私もその現物を見たことは無いし巻物全体が活字化されていることもないので、全体を知る機会は無いのですが、幸いなことに、終戦後間もない時期に出された『日本無線史』の第十巻『海軍無線史』の中に、何カ所か省略しての引用があります。
 この引用は、『海軍無線史』の編纂の中心だったと考えられる谷惠吉郎氏によるものだと推理できます。
 谷氏は海軍無線の研究者として有名だった人で、戦後は大学教授として学生を教えながら、明治の日本の無電技術の周知に力めた人です。
 海軍時代、自分の研究室の一隅に、明治時代の無電機の廃品を集めて展示していたそうで、戦争末期の混乱で紛失しなければどんなにか良かったのに――と惜しまれます。
 しかしとにかく現物を知っている人であり、その引用は信頼がおけます。
 ただし『日本無線史』は昭和20年代という物資も人材も払底した時代の出版であり、校正漏れがかなりあるように思われます。
 そこでここでは、『日本海軍エレクトロニクス秘史』の附録にある引用を元にしようと思います。

◎『日本海軍エレクトロニクス秘史』

 ――とは、田丸直吉という技術系の海軍軍人によって書かれた本です。
 田丸氏(明治4410月生)は東大工学部を出て海軍で通信関連の職務についていましたが、その仕事の関係で海軍大臣官房の書庫に出入りすることが多く、そこで明治時代の多くの資料を見つけて、丹念にノートに書き付けました。
 終戦間際には潜水艦に乗ってドイツまで新技術獲得に行くなど、大変な冒険をしましたが、スエーデンに逃げて一命を取りとめ、昭和21年に帰国。
 その後は沖電気で活躍し、取締役になり、さらにいくつかの系列企業の社長として働き、引退後に前記の大臣官房で得た資料を整理して、日本海軍の無電濫觴の精密な記録を書き、これに『兵(つわもの)どもの夢の跡』という題を付けました。
 残念ながら書きおわった直後に心不全で急逝(昭和53年4月)しましたが、昭和54年(初め?)に御遺族と知人によって私家版として出版されました。
 この私家版は入手困難なのですが、昭和54年11月に、知人の尽力によって原書房から『日本海軍エレクトロニクス秘史』という題で出版され、一般の入手が可能になりました。
 この改題出版の時に知人の元海軍堀元美という人が、資料性の高い附録として、木村駿吉の技術解説書、島村速雄と秋山眞之から木村駿吉に送られた礼状、および山本英輔による前記無電記録の三種を付加しました。
 この山本英輔の無電記録は、谷氏によると思われる『日本無線史』から取り、それを専門家の目でわずかの訂正を加えたものです。

 以下の無電電文そのものの引用は、これを元にいたします。
 写真にあります現物の文を目を皿のようにして見まして比較しますと、ほとんど同一であると判断できます。

 前置きが長くなりましたが、次回からいよいよ無電電文そのものを記します。

▼山本英輔の日本海海戦無電記録(太平洋学会から)

 ↓↓↓↓↓
 

Re:日朝古代交流史について考えること(1)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月15日(日)12時32分19秒
   いよいよ始まりますね。
 楽しみにしております。
 他の方々も、ご意見ご感想など、お寄せください。
(トンデモ本的なもの以外は掲載いたしますので・・・)

 ところで津田左右吉ですが、最近では流石に相手にしない学者も増えてきたようですね。しかし津田信者はいるので、問題だと思います。
 田中卓先生は、津田史学を批判して、「子供の火遊びにすぎない」と痛烈に批判しておられたように記憶しております。
 田中卓先生は戦後の古代史家が次々に左旋回した中で、毅然として正統史観を守り抜いた御方で、左旋回しなかった少数の中のお一人だと、認識しています。
 

日朝古代交流史について考えること(1)

 投稿者:解法者  投稿日:2009年11月15日(日)11時12分31秒
   これから「日朝古代交流史」についてのささやかな論考をした
ためたいが、最初に強調したいことが2つある。
 1つは、これからの論考は朝鮮の側から「日朝古代交流史」を
考えるもので、『日本書紀』や『古事記』などの「記紀」に関する
解釈は重要と考えるが、それよりもそれと朝鮮および中国の側から
の史料との照合を中心にして「日朝古代交流史」の考察を目指す
ことにある。
 2つはこれまで「記紀」に関する解釈はもちろんその存在までも
日本民族主義の所産(皇国思想)であるとして、戦後これを否定
してきた。このことは「朝鮮古代史」の解釈に顕著に現れる。
その代表者として挙げられるのが「津田左右吉」である。戦後、
これの路線を強力に推し進めたのが朝鮮人であり、これに迎合
した日本人である。
 「津田左右吉」は、神代の物語が実は政治目的を持って後世
(雄略・継体天皇時〔後に継体・欽明天皇時〕)に作り出された
もので、系図として事実を記しているのは応神天皇〔後に崇神天皇〕
以後とし、神話・物語は一部民間説話を利用しながら「記紀」
を編纂したという。しかし、誰が考えてもわかるが、神話・物語
は突如として作り出されたものではなく、綿々と人々に語り継がれ
その記憶の中に残っていたものであろう。つまり、その編纂者
が突如頭の中で創作した(あるいは6世紀以降の神話・物語のみ
を集成した)ということは果たして考えられるのかということで
ある。「記紀」にはかくも多き神話・物語が存在している。これが
すべて6世紀以降のものだとは考え難いのである。
 加えて、神話・物語が史実を証明したことは多く見られる。
「トロイの遺跡」はギリシャ神話の中に眠っていたが、シュリ−マン
の手により発掘されてその神話が史実と証明された。中国でも
『史記』殷本紀の王朝系譜が「甲骨文」の発見により事実と判明
した。津田が「四方経路という概念により作られた物語に過ぎない」
としていた「四道将軍」は『稲荷山鉄剣銘』での「大彦」の事蹟に
より史実が証明された。つまり「文献学」が「考古学」により次々
と敗れていることである。
 私は「伝承」を否定する「津田史学」は既に破綻していると考える
が、どうだろうか。
 戦後の日本古代史の研究は「津田左右吉」を承継して進んで来た
と言っても過言ではなく、歪められてきたのである。これからの
研究は長い間、これに呪縛されてきたことからの脱却により進んで
いくことを願ってやまない。
 

オロモルフ号の航宙日誌3981『奉祝記念切手』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月14日(土)12時52分4秒
   御即位二十年を言祝ぐ記念切手を買いました。
 これは勿体なくて、使うことが出来ません。
 保存です。
(この佳き日をインターネットの保守派的なサイトがどのように慶祝しているか、十箇所くらい見てみましたが、きちんとしているのは個人のブログ数カ所ですね。集団の書き込み掲示板は惨憺たる状態でした。)

 ↓↓↓↓↓
 

オロモルフ号の航宙日誌3980『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月14日(土)12時43分44秒
  ▼蘭姫号ピンチ?

 一昨日、蘭姫が夕食を全部吐いてしまいました。
 もともと一日に一回しか食事をせず、それも残すことが多いのですが、やっと食べたものを吐いてしまったので、心配です。
 なんだか元気がありません。
 いつもは夕方になると元気が出て散歩に行きたがるのですが、昨日は行きたがりませんでした。
 しかしまあ、犬も長生きになりましたね。
 昔の犬は、生まれて一年以上生きるのは運の良い方。
 運が良くてもだいたいは数年で子孫を残して死にました。
 そのうち注射をするようになって寿命が延び、さらに今流行の温暖化によってまた寿命が延びました。温暖化といっても生活環境の温度コントロールのことです。
 人間も、冬の温暖化と夏の寒冷化によって、寿命がずいぶん伸びたと思います。
 あとは予防注射ですね。
 予防注射も副作用に神経質になりすぎると、逆効果だと、最近感じています。
 1000人に一人の副作用を問題にして全部やめてしまうと、もっと多くの病人が出てしまいますから・・・。
 それにしても厚生労働省はいいかげんだなあ・・・年金にせよ新型インフルにせよ、何を言っているのかさっぱり分かりません。
 前に年金問題で疑問の点を手紙で聞いたのですが、質問をはぐらかしたような返事が来ました。
 年金問題が大きな話題になる10年ほど前の、年金窓口の酷い対応を思い出してしまいました。当時だったら、返事そのものが来なかったでしょうけど。

▼次郎柿

 廊下に並べました。こうやって置いて、熟した順に食べます。
 柔らかくなりかけているのを食べましたが、やたらと甘いです。
 果糖の食べ過ぎになるのではと、心配になるほどでした。
 娘と孫はそばにいるので、昨日も来て食べていました。

 ↓↓↓↓↓
 

オロモルフ号の航宙日誌3979『小学生の日本神話291』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月14日(土)12時41分11秒
  ▼『古事記』の神話 上巻 大国主神13

<二、根の堅州国を訪問7>

[承前]

 須佐之男命は、大穴牟遅神を蛇のいる部屋に寝かせました。
 そのとき須勢理毘売は、「蛇のヒレ(*1)」を大穴牟遅神に渡して、
「蛇が喰いにきたら、このヒレを三度振って追い払いなさい」
 と教えました。
 そこで、妻に教えられたとおりにしたところ、出てきた蛇はおとなしくなりました。
 そのため大穴牟遅神は無事に朝を迎え、その部屋から出ました。

*1:「ヒレ」は領巾と書かれます。女性が肩にかける装飾用の薄い布地ですが、これをヒラヒラと振ることによって悪を追い払う力があると考えられていたようです。
〈饒速日命〉が天降るときに天津神が授けた十種の神宝の中に三種の「ヒレ」があり、その一つがこの「蛇ヒレ」があったと伝えられています。
「ヒレ」を振るの「フル」も霊的な意味を持ち、神霊を移すという意味もありますが、『先代旧事本紀』には天津神の教えとして「この十宝を一二三四五六七八九十と言いてフルへ、ゆらゆらとフルへ」とあり、そうすると死んだ人も生き返ると記されています。
 大和の石上神宮(いそのかみじんぐう)は七支刀が収蔵されていることで有名ですが、そこに祀られている布留御魂大神(ふるのみたまおおかみ)は十種神宝の霊威であり、この神宮の近くを流れる川は布留川であり神域は布留山です。
 布留を読み込んだ歌は万葉集にも数多くあります。

[続く]
 

Re:4.18 施薬院の設置(天平二年(730)四月)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月14日(土)12時39分19秒
   これはもの凄く有名なお話しですね。
 光明皇后は藤原一族の政略とも関係するし、ご本人も相当なやり手だったようですが、立派な皇后だったことは間違いないと思います。
 わたしらが若いころは、歴史の時間に習いましたし、いろんな本や雑誌に書かれていたのでよく知っていますが、今はどうなのでしょうか?
 現在の女性皇族の方々がどのていど六国史を勉強しておられるのか、時々心配になります。
 もし勉強しておられれば、運動会には出席するが宮中三殿の参拝は拒否なさるなど、ありえないことです。
 皇族方は一般人が従うべき法律とは別の皇室典範の世界におられるのですから・・・。
 

奈良時代にこんなことが−一言主大神は語る

 投稿者:ハチマキおじさん  投稿日:2009年11月14日(土)09時54分37秒
  4.聖武天皇の御代(724〜749)

4.18 施薬院の設置(天平二年(730)四月)
 四月十七日、初めて施薬院が皇后宮職に設置されたのじゃ。施薬院は、病人に薬を施し治療する施設なのじゃ。光明皇后の有名な治績としてもう一つ悲田院がある。悲田院の設置については『続日本紀』は何も語っておらぬが、おそらくこの前後に設置されたものであろう。この悲田院の役割は、具体的には分かっておらぬが、貧窮者や孤児などに食事を与え宿泊所を提供したのであろう。両施設ともに仏教思想にもとずく社会事業であり、光明皇后の崇仏思想のあらわれなのじゃ。

 施薬院は、皇后宮職の中に置かれたが、皇后宮職は藤原不比等の邸宅にあり、後に法華寺となった場所じゃ。施薬院の運営には、皇后宮職の封戸と藤原不比等家の封戸のうち庸の品物とがあてられた。これらの経費によって、各種の薬が購入されたのじゃ。正倉院文書によると、光明皇后は各種の薬を東大寺に施入し、病気の治療にあてておられる。麝香・犀角・桂心・人参など六十種で、二十一の櫃にわけて収められたそうじゃ。今でもその一部は正倉院に残っておる。これらの薬種のほとんどが、中国・インド・西域などからの輸入品じゃ。大変に高価なものじゃった。ところで当時の行政機関には、典薬寮があり、薬草園なども運営しておった。しかし、朝廷を主対象としたもので、施薬院とは全く役割が別じゃった。

 施薬院・悲田院ともに、大変立派な社会事業ではあったが、残念ながら長くは続かなかったようじゃ。詳しいことは分からぬが、せいぜい三十年程度ではなかったかの。いわば深い信仰心を持った光明皇后個人の事業であり、行政組織の一環になり得なかったからじゃ。しかし、両院とも光明皇后の心は通っていたのではないかの。行政組織といえども心を失ってはならぬ。社会保険庁などを反面教師とするべきなのじゃ。

http://www12.ocn.ne.jp/~koushin/

 

オロモルフ号の航宙日誌3978『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月13日(金)11時29分49秒
  ▼次郎柿

 ますます野鳥の食事になっております。
 考えてみますと、この附近の柿は、今年は生り年ではないのです。
 我が家の柿も生り年ではないのですが、不思議なことに、去年は思ったより生らず、今年かなり生ったのです(*)。
 そういうわけで、附近の柿は食事にできないので、野鳥の群れが我が家に集まるのですね。
 早く収穫しないと人間が食べる分が無くなってしまいます。
(*:この事はいささか心配でもあります。柿が枯れる前兆ではないかと・・・?)

 ・・・というわけで、今朝塀の内側に生っていたのを合計67個、取りました。
 赤かったり青かったりですが・・・。

▼温州ミカン
 すっかり橙色になりました。

 ↓↓↓↓↓
 

オロモルフ号の航宙日誌3977『日露戦争と無線電信83』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月13日(金)11時28分31秒
  ▼日本海海戦における三笠の無線電信機の損傷22

 山本英輔が記録した日本海海戦の無線電信(其の四)

◎「出雲」

 開戦時から日本海海戦まで山本英輔が若手参謀(当時大尉)として乗艦し活躍した「出雲」は、第二艦隊旗艦であり、有名な上村彦之丞が司令長官でした。
 この「出雲」は明治32年にイギリスのアームストロング社で竣工した9730トンの一等巡洋艦で、速力はほぼ21ノット。
 装甲は戦艦なみで、かなり強力な軍艦であり、だからこそ第二艦隊の旗艦になったのでしょう。
 その艦影を下に示します。この写真は明治34年に撮影されたそうです。
 真横からではないので見にくいのですが、三本煙突で、その前から三本めの煙突と後部マストとの間が少し開いています。
 前回の図面と照らし合わせますと、日本海海戦の前に、この少し開いた部分の甲板附近にある防弾性の強い弾薬運搬通路の隅に無電機を移動設置したのでしょう。
 そして、山本英輔自らが傍に待機して、他艦どうしの無電も片端から記録したのです。

◎山本英輔がマルタで知識をえたことが三四式から三六式への改良の原因?

 このことが、いつでしたか産経新聞に、「新発見」として出ていました。どこかの大学の教授が研究して見出したという話です。
 しかしその記事を読んだ時にはオロモルフはその事をよく知っておりました。
 なぜかといいますと、昭和に入ってからの講演会で山本英輔がマルタの件を語っている内容が冊子になっていたからです。
 ですからこれは、戦前から知られていた話であり、新発見などではありません。
 さらに、改善要求は三四式を使っていた軍人たちからも出されており、また木村駿吉や外波内藏吉など開発陣も、欧米視察などによって痛感していたらしいことが知られます。
 だからこそ、明治35年になってイギリス製電磁リレーの大量購入などをしていたのです。
 要するにマルタ島の件は山本英輔の自慢話です。むろん実態の伴った自慢です。とにかく技術面でも有能な軍人でしたから・・・。

 要するに産経新聞の記事は次の二点で不十分だと思います。
(1)山本英輔がマルタで英軍無電を見て三四式の改善を提言したという話は史実だが、それは新発見ではなく戦前から知られていて本にもなっていた話である。
(2)三四式を改善する必要性は山本英輔だけが感じていたのではなく、開発者の外波内藏吉や木村駿吉も感じており、また三四式を装備した他の軍艦の責任者も感じていた事である。

[続く]

▼第二艦隊旗艦「出雲」

 ↓↓↓↓↓
 

オロモルフ号の航宙日誌3976『即位二十年をお祝い申し上げます』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月12日(木)13時24分9秒
   今上天皇が即位なさってからもう二十年になるのですね。
 十九年前のこの日、即位の礼がおこなわれたのですね。
 心よりお祝い申し上げます。
 ↓↓↓↓↓
 

オロモルフ号の航宙日誌3975『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月12日(木)13時11分58秒
  ▼森繁さんのお母さん

 と言われている写真をご覧に入れます。
 たぶん昭和15年、オロモルフの祖父がやっていた医院の門の前で撮った写真です。親戚が撮ったのかもしれません。
 前にお婆さんが三人並んでいますが、向かって右が森繁さんのお母さん、中央がオロモルフの祖母、左はご近所の人です。
 後にいるメガネの男性は医院の書生さんで、薬の管理をしていました。薬剤師の免状を持っていたのかいなかったのかは、わかりません。
 しばらくして出征しまして、戦後無事帰還しましたが、そのときはすでに祖父は戦災で死んでいました。
 右側のお婆さん、何となく森繁久彌に似ているような気がします。
 ↓↓↓↓↓

▼纏向遺蹟の豪華建築物発掘場所

 この地図は、オロモルフが『卑弥呼と日本書紀』に描きました、纏向遺蹟付近の地図です。
 刈谷俊介さんはじめ数人の方のご意見を元にして、想像や推理を交えて描いたものです。
 図の上半分の太線の内部が、後期纏向京の推定範囲です。後期というのは第十代崇神天皇以後、十一代垂仁天皇から十二代景行天皇にかけて大和朝廷が大発展した時代です。右上の推定宮殿地区は後期に皇居があったのではと考えられる場所です。
 初期の纏向京の推定範囲はその中の四角の太線ですが、赤で囲いました。
 初期というのは、第十代崇神天皇の若いころ――〈倭迹迹日百襲姫命〉が活躍した時代――です。崇神天皇が実権を握って活躍したころの皇居は図の右下の方だろうと言われていますが、〈倭迹迹日百襲姫命〉の時代には、この赤四角が都だったのだろうと、推理されるのです。近くでは多くの初期前方後円墳があり、運河の跡が見つかっています。
 話題になっている今回の大型建築物発掘場所はこの赤四角の中央部らしいのですが、四角内の右上の推定初期宮殿という○とは少しだけ違っています。しかし距離にしてたかだか二百メートルです。つまり声が届くような距離しか違いません。
(図の中の網目の太い横向きの四本の線は、古代に河川が有ったと思われる場所です。今残っているのは下の一本だけです)
 問題の箸墓の造営年代の研究も卑弥呼の死と一致してきましたし、卑弥呼とは〈倭迹迹日百襲姫命〉であり、邪馬台国とは三輪山麓の初期大和朝廷である――というオロモルフが『卑弥呼と日本書紀』に書いた推理は、ますます当たりそうになってきました。
 ↓↓↓↓↓
 

オロモルフ号の航宙日誌3974『小学生の日本神話290』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月12日(木)12時58分5秒
  ▼『古事記』の神話 上巻 大国主神12

<二、根の堅州国を訪問6>

[承前]

 そこで大穴牟遅神は、その教えに従って、ご先祖神の須佐之男命がおられる場所に行きましたところ、そこにはその娘の須勢理毘売(すせりびめ/*1)がいて、二人は目配せして結婚しました。
 須勢理毘売は家に戻って須佐之男命に、
「とても立派な男神が訪れました」
 ――とお知らせしました。
 須佐之男命は大穴牟遅神をご覧になって、
「これは葦原色許男神(あしはらしこおのみこと/*2)という者だ」
 と仰せられました。
 それから須佐之男命は、子孫である大穴牟遅神に、厳しい試練をお与えになりました。

*1:須勢理(すせり)は勢いよくどんどん事を進めるといった意味だそうです。チラと目配せしただけでいきなり結婚してしまうのですから、凄い女性ですね。あとでいろいろと騒動も起こすらしいです。

*2:辞儀どおりには「地上の国の醜い男」ですが、いろいろな説があるようです。一つは、知らない間に娘と結婚したしまった男への反発、もう一つは将来地上世界を担う強い男だという表現です。「醜男/しこお」には醜いという意味と強いという意味があるようです。鬼に似ていますね。

[続く]
 

オロモルフ号の航宙日誌3973『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月11日(水)12時05分12秒
  ▼弔意

 森繁久弥さんが亡くなられたのですね。
 96歳とか。
 私の時代にはすでに喜劇俳優として有名でしたが、私がこの人に感心したのは、電電公社の雑誌のインタビューで満洲時代の思い出を語り、その中で松前重義の世界的発明である無装荷ケーブルの話をきわめて正確に、かつ、熱意をこめてしているのを読んだ時でした。
 それ以来この人への評価を改めました。凄い人だ――と思うようになりました。
 その後、左翼タレントたちが批判しているのを聞いて、ますますファンになりました。
 じつは、この森繁さんのお母さんの写真がいくつか、我が家に残されております。
 祖母は、勝海舟に世話してもらった原宿の土地(当時は単なる原っぱ)に借家を建てて食いつないでいたのですが、その借家に森繁さんがいたのです。
 ご本人は満洲でアナウンサーをしていたのでほとんどおらず、お母さんが一人で住んでおられたようですが・・・。
 ご冥福をお祈りいたします。
 ↓↓↓↓↓
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20091110-OYT1T00983.htm?from=top

▼ついに卑弥呼の御殿か!

 私がかつて、『卑弥呼と日本書紀』の中で、日本で最初の計画的巨大都市だろうとの仮説を記しました纏向遺蹟(私は纏向京と呼びました)で、広壮な建築物が出土したのですね。
『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の御殿(祭祀施設)である可能性が高いと専門家も述べています。
 だとしますと、卑弥呼とは『日本書紀』に〈倭迹迹日百襲姫命〉と書かれている超人的な女性皇女である(名前も一致する)――という私の推理が正しかった事になります。
 むろん、まだ分かりませんが、過日の箸墓造営年代の件と合わせて、オロモルフの説が当たっている可能性は大いに高まりました。
(場所は、『卑弥呼と日本書紀』に描きました「後期纏向京」の概略図の中の「初期纏向京推定範囲」の内部になります。場所の面でもピッタリなのです!)
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http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20091110-OYT1T00860.htm?from=main2

▼鉢植え

 手前から花ユズ、温州ミカン、柿の禅寺丸です。

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オロモルフ号の航宙日誌3972『日露戦争と無線電信82』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月11日(水)12時04分0秒
  ▼日本海海戦における三笠の無線電信機の損傷21

 山本英輔が記録した日本海海戦の無線電信(其の三)

◎横臥式アンテナ

 山本英輔は、アンテナについていろいろと試行錯誤した末、「横臥式が良い」という結論を得ました。
 軍艦上での横臥式というのは、前後二本のマストの間に、横に線状アンテナを張り、その一箇所から下に降ろして、甲板近くにある無電室に引き込む方法です。
 山本英輔のこの結論に対して、木村駿吉は反対し、あくまでも垂直に高く張るべきだと主張しました。
 しかしデータは横臥式の方が良いので、最終的には木村駿吉も山本案を認めたそうです。

◎「出雲」における横臥式アンテナ

 では、具体的にどのように張ったのでしょうか。
 これについて山本英輔は、日本海海戦の直後に、アンテナ形状の試験についての報告をしています。
 多くの図と説明文がありますが、そのうち実際に日本海海戦当日に「出雲」で使用していたらしい方法を写真の上に示します。
 下は、これらの実験結果から、推奨すべき張り方として描かれた図です。
「出雲」の艦影は次回に示しますが、三本煙突の艦で、前から三本目の煙突と後部マストの間が少し開いています。
 したがってその空間が使いやすかったと思います。
 さらにこの方法には、軍艦ならではの大きな長所があります。それは大砲の邪魔にならない――大砲によってアンテナが切断されない――という長所です。これは木村駿吉の方法に比べて圧倒的な利点だったと思われます。
 山本英輔は、日本海海戦のころは、通常の無電室ではなく、甲板近くの防弾力の強い弾薬運搬用通路の一隅に場所をとってそこに無電機を置き、自分で操作して、受信した電文をすべて記録しました。他艦どうしのものをすべて記録したので、これは実に貴重な資料となっています。

◎横臥式アンテナの評価

 むろんその後のアンテナ理論の発展に照らしてみますと、山本英輔の考えも間違っていました。山本の提案は逆L型に近かったので、木村駿吉よりは真相に近づいていたのですが、それでも錯覚が有ったのです。
 電波は、複数の導線を束にした部分から送受されており、そこから無電室までの線は単なる引き込み線で、電波にはあまり関係ないと考えていたのです。
 これは当時のほとんどの人の考えで、海外でも同様だったようです。
 じっさいには、アンテナの横臥部分からの電波は、海面(地表)で反射する電波と相殺してしまって、効率がとても悪いのです。
 海面や地表のような導体表面では電波はゼロになります。これは位相(向き)が反対の電波が反射してゆく事を意味しています。それで相殺してしまうのです。
 ですから電波の送受は、主として上から下に張られた引き込み線でなされるのです。
 としますと、その引き込み線の周辺に金属の物体(たとえば煙突やマストやマストに張られたワイヤーの類)があるかどうかで、大きく変わってくるでしょう。
 この事と、横臥式と垂直式の比較実験がゴッチャになるものですから、容易には結論が出なかったのですね。

◎山本英輔の他の業績

 山本英輔は他に、夜になると電波が遠方まで届く現象に気づき、いろんな実験をしています。電波の減衰が気象に関係すると睨んだようです。また、近いと強く遠いと弱くなるとは限らず、周期的に強弱が変化するという資料も得ています。
 戦後になって海軍では、これを山本現象と呼んで、毎日一定時間に特殊な符号を出して、それがどこまで届いているかの統計を取りました。
 そうこうしているうちに、ケネリー・ヘビサイド層の理論が普及してきて、高空の電離層による反射だった事が分かりました。
 ヘビサイドという人は、ベクトル解析を研究してマクスウエルの方程式を現在のような形式に整理したり、複素数を用いる電気回路理論を開発したり、伝送理論を開発したり、装荷線輪方式を発明したり、ヘビサイドの演算子を発案して電気回路の過渡現象を解いたりした、きわめて優れた学者でした。

[続く]

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Re:お願い

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月11日(水)11時58分30秒
   解法者さん、ありがとうございます。
 私より多少お若い(ハチマキおじさんと同年代?)とはいうものの、その精力的な活動には感嘆します。
「日朝古代交流史」の連載、もちろん大歓迎です。
 私もハチマキおじさんも古代史に興味がありますし、他にも興味を持つ方が多いと思います。
 たぶん長期になるでしょうが、じっくりとお願いいたします。
(解法者さんの法律関係の書き込みの保存頁への保存が遅れていて申し訳ないです。ちょっと仕事が立て込んでいるものですから遅れていますが、なるべく早く、ハチマキおじさん、那須の権太さんとともに、保存いたします)
 

お願い

 投稿者:解法者  投稿日:2009年11月11日(水)00時34分7秒
   しばらくして「日朝古代交流史」を投稿してよろしいでしょうか。10年前に
脱稿したものですが、その後の研究者の論考もあり、大幅に改訂しなければなり
ませんでした。
 1.序論 2.朝鮮人研究者の妄想 3.倭国はどこにあったか 4.任那
はどこにあったか 5.神功皇后の事蹟 6.七支刀 7.広開土王碑文
8.倭の五王 9.任那日本府 と続きます。
 いずれも朝鮮・中国の史料から日本の「記紀」などを考えたものです。
まだ、一部しか完成してませんが、相当な分量になると思います。
 

奈良時代にこんなことが−一言主大神は語る

 投稿者:ハチマキおじさん  投稿日:2009年11月10日(火)18時05分56秒
  4.聖武天皇の御代(724〜749)

4.17 特別給費生の創設(天平二年(730)三月)
 三月二十七日に、太政官が次のように奏上したのじゃ。
「大学に在籍する生徒のなかに年月を経ても学業が浅薄で、博く深く学べない者がいます。家計が貧しく学費を十分に出せないからです。学問を好んでいてもその志を果たせません。生まれつき知能聡明で学業に優れている者を五人から十人選び、学問に専念させ、後進の目標とさせたいと思います。そこで、夏・冬の衣服と食料を支給して頂きたい。

 また、陰陽・医術・七陽暦・暦の頒布などは、国家の要の道であり、止めたり欠いたり出来ません。ただこれらの学術を指導する博士を見ると高齢で老衰しています。いまのうちに後進に学術を指導しておかないと、これらの業が絶えてしまうでしょう。そこで次のことをお願い申し上げます。吉田連宣(きったのむらじよろし)ら七人は、それぞれ弟子をとって学業を教授させます。弟子達の季節ごとの衣服と食料は大学生に準じて支給します。生徒の数は、陰陽・医術は各三人、七陽暦・暦の頒布は各二人とします。

 また蛮国は国も違い風俗も様々です。もし通訳がいなければ事を通じることが出来ません。そこで粟田朝臣馬養ら五人に命じて各々弟子を二人取り、漢語を習わせたいと思います」
この奏上は天皇によって許可された。貧窮の故に学業が困難な優秀な人材に対し、衣服と食料を支給しようとするもので、得業生(とくごうしょう)と呼ばれておった。いわば、特別給費生というところじゃろう。大学生だけではなく、専門職である陰陽や医術の生徒にも適用されておる。また、通訳の育成にも配慮しておるところに奈良時代の国際性が感じられるじゃろう。

 現在は、全体的には経済レベルも上がりまた育英制度なども充実してきておる。しかし、荒廃した戦後教育の影響が、教育そのものにいまだに大きな影を落としておる。子供の教育を見直すことは勿論じゃが、教師そして親の再教育が必要なのかもしれんぞ。

http://www12.ocn.ne.jp/~koushin/

 

オロモルフ号の航宙日誌3971『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月10日(火)11時46分14秒
  ▼不思議なアンケート

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http://research.news.livedoor.com/r/12856

▼文献リスト

 ようやく『無線技術の日本史』用の文献一覧を書きおわりました。
 あとは、そのリストの順に書棚に本を並べておしまいです。
 まあ、何日かはかかりますけど。
 数は722冊です。

▼木村駿吉リスト

 同じく『無線技術の日本史』用の木村駿吉関連文献リストへの追加を次にやります。
 すでに1000編くらいの文献が集まっていますが、まあこれで終わりにしようと思っています。

▼図面の修整

 前にお見せしたことのある、三笠の弾痕図の修整をしています。
 猛烈にゴミが多いので、スキャナーでパソコンに取り入れて、写真修整ソフトでゴミを取り除く作業です。
 この作業は業者などに頼むわけにはいきません。
 内容を知っている人でないと、ゴミだか必要な点だかの区別がつかないからです。

▼三笠の無電機

 現在横須賀の記念艦三笠に展示されている無電機のレプリカは、日本海海戦の時に使用された三六式だとされているのですが、調べれば調べるほど、それは違うのではないか――という気がしてきました。
 むろん単なる想像ではなく、いくつかの証拠があります。ただし残念ながら絶対的な証拠ではありません。
 やや間接的な証拠書類をいくつも見つけまして、それを総合すると、三六式ではないようだ――との結論になるのです。
 記念艦三笠の無電機は、パネルになっている回路図も変です。あれでは動かないのではないか――と思います。

▼信濃丸

 あれから「タタタタ・・・敵艦隊発見・・・」の信濃丸の写真を探し続けておりますが、まだ見つかりません。見つかるのは大正以後のものばかりです。
 とても不思議です。
 軍機を持った軍艦の写真は無数にあるのに、外国航路の豪華客船として使われていた明治時代の信濃丸の写真が一葉も無いのです。
 日露戦争の資料はずいぶん集めましたが、どの資料も、よく知られた写真がほとんどで、掘り出し物は見つかりません。希に掘り出し物に近い写真は見つけますが・・・。
(こういう調べ物をしていて分かりますのは、昭和後期以後の日露戦争ものの本は、左翼臭がぷんぷんしているという事です。東郷平八郎を賛美している本ですら、私が読むと左翼臭がするのです。こういう本で日露戦争の勉強をする今の人は気の毒です)

▼花子

 電気回路図を描いたおかげで、「花子」の使い方にずいぶん慣れてきました。
 商売が出来そうな感じです。
 慣れたころには必要性が無くなりますが、これはまあ何でもそうなのでやむをえません。

▼千両

 だいぶ赤くなってきました。
 この上に生っている柿を野鳥が食べに来るので、その糞で千両はすっかり汚れました。これはやっと見つけた汚れていない実です。

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オロモルフ号の航宙日誌3970『小学生の日本神話289』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月10日(火)11時43分50秒
  ▼『古事記』の神話 上巻 大国主神11

<二、根の堅州国を訪問5>

 一目を避けて隠れた大穴牟遅神を、兄弟神たちは探し求めて追いつき、弓に矢をつがえて、大屋毘古神に渡すよう求めました。
 大屋毘古神は大穴牟遅神を木の股をくぐり抜けさせて逃がし、
「須佐之男命がいらっしゃる根之堅州国(*1)に向かいなさい。きっとうまく取りはからって下さるでしょう」
 と教えました。

*1:地底の堅い土地の国(黄泉国)。

[続く]
 

Re:誰〜もイギリスの刑事司法制度のことは言わない(12)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月10日(火)11時43分14秒
   解法者さん、貴重な資料をありがとうございます。
 三権分立の国際標準?についても、なるほどと思いました。

>彼らがある国を紹介し、
>他国を紹介しなかったときは必ず<裏>があるということを
>忘れないでいただきたい。

 これまでも人権主義者の欺瞞は大いに感じてきましたが、憲法とか法律とかの問題になりますと、素人の悲しさでついつい騙されてしまいます。
 彼等の説を聞くときは、上の注意を肝に銘じないといけませんね。
 

誰〜もイギリスの刑事司法制度のことは言わない(12)

 投稿者:解法者  投稿日:2009年11月 9日(月)18時46分32秒
  誰〜もイギリスの刑事司法制度のことは言わない(12)

 日本で当たり前のように論じられる「三権分立」についても、
イギリスのみならずフランスでも採用されてない。ドイツでも同じ
である。ドイツでは「憲法裁判所」があり、司法権の独立に
つながる「三権分立」が存在するように見えるが、「行政権」の
「司法権」からの独立が叫ばれ一般の「司法裁判所」から独立
した「行政裁判所」が存在している(日本でも戦前は「行政裁判所」
が存在していた)。<違憲立法審査権>を持つ「憲法裁判所」が
あるからといって「三権分立」が確立しているわけではない。
フランスも「憲法院」があるが、実権は「行政府」が握っている。
つまり、これらの国では日本・アメリカのような「司法裁判所」
が全ての裁判所を統括して<違憲立法審査権>を持つわけでは
ないのである。
 つまり、制度に<常識>など存在しないことを肝に銘じる
べきだ。日本、アメリカで存在したからと言って、それが
「世界標準」になることなど有り得ない。
 特に「人権主義者」は自説に都合の良い国の制度を捜し歩いて、
それのみを自説の補強に使う傾向から一歩も抜け出していない
のが現状である。こういう態度は意図的に読者を騙している
のと全く一緒であるまじき態度である。彼らがある国を紹介し、
他国を紹介しなかったときは必ず<裏>があるということを
忘れないでいただきたい。
                     〔完〕
 

オロモルフ号の航宙日誌3969『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 9日(月)11時37分41秒
  ▼甘夏

 だいぶ黄色くなってきました。
 食べ頃は来春ですが・・・。
 次郎柿はあいかわらず野鳥が食べています。
 ずいぶん食べられてしまいました。

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オロモルフ号の航宙日誌3968『日露戦争と無線電信81』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 9日(月)11時36分33秒
  ▼日本海海戦における三笠の無線電信機の損傷20

 山本英輔が記録した日本海海戦の無線電信(其の二)

◎外波内藏吉と木村駿吉の欧米視察

 山本英輔が遣英使節に随って航海していたころ、三四式無電機の開発プロジェクトリーダーだった外波内藏吉と技術面で活躍した木村駿吉は、欧米視察に行っていました。
 視察と同時に必要部品の買い付けも目的であり、かなりの予算を持っていました。
 外波内藏吉はこの欧米旅行の直前に、横須賀に無電機の工場をつくることを建議していました。
 三四式開発のメンバーの技術の中心だった松代松之助やその関係の人たちのほとんどは逓信省電気試験所に戻っており、プロジェクトは一応は解散していたのですが、外波内藏吉はその後のことを心配したのです。

◎研究開発陣に山本英輔も参加

 イギリス製の優秀性を見た山本英輔と、欧米視察で世界の趨勢を知った外波内藏吉と木村駿吉の意見は一致していました。
 明治36年、海軍では新たに横須賀に製造と開発の中心をつくり、外波内藏吉と木村駿吉のほかに何人かの有能な技術系の軍人を配し、さらに逓信省電気試験所の技能者の一部をゆずってもらって、三四式の改善に取り組みました。
 そこへ、海軍の意向で、改善を提案した山本英輔も加わりました。技術系ではない将来有望な軍人が技術開発に加わるのは珍しいのですが、山本の長文の建議書が注目された結果でした。

◎顕微鏡を持ち込んだ山本英輔

 木村駿吉の思い出によると、山本英輔は検波器であるコヒーラの改良に取り組み、金属粉の状態を見るために顕微鏡を持ち込んで木村駿吉を感心させました。
 当時は顕微鏡は最新鋭装置であり、金属粉を調べるのに顕微鏡を使うというのは、木村駿吉も松代松之助も考えなかった事だったようです。
 で、顕微鏡による観察の結果、金属粉がトゲトゲの状態だと性能は悪く、円滑な形だと良好な性能であることが分かり、それを製造に生かしたそうです。
 また、山本英輔の思い出談によりますと、アースはなるべく機器の近くに埋めるのが良い――という発見もしたようです。当時は何百メートルも先にアースをしたりしていたらしいのです。

◎丈夫で壊れない無電機

 この年、明治36年は、日露開戦の前年であり、国際情勢を知っている士官たちの緊張はただならぬものがあり、関係者たちは三四式の改善に必死になりました。
 木村駿吉らは、「80海里まで届く」ことのほかに、「丈夫で壊れない装置」を目標に苦心しました。
 その結果として、年末にはなんとか、「80海里までかろうじて届き、素人が悪環境の軍艦上で扱ってもなかなか壊れない装置」の開発に成功しました。

◎製造開始と山本英輔の発令

 明治36年の12月になりますと、もはや日露開戦が避けられないことは、外波内藏吉のような高級士官には分かりましたし、準備せよとの命令もありますたので、正月返上で必死の製造に取りかかります。部品をつくるメーカ(といっても中小企業)にも猛烈に気合いを入れたようです。
 山本英輔はこの年の11月4日に上村常備艦隊司令官の幕僚となり、さらに12月28日には聯合艦隊第二艦隊参謀(上村が指揮)となり、旗艦「出雲」に乗り組みました。
 11月に幕僚となった時点で山本は自身が開発したコヒーラや受信機を持ち込んで多くの実験をしました。
 第二艦隊の参謀になってからも、多くの実験をして資料を作成しました。
 やがて開戦となると、第二艦隊はロシア艦隊を追って苦労しますが、そのときロシア艦隊がどこにいるかという推理で木村駿吉と山本英輔の意見が対立し、軍令部は木村の意見を採用しましたが、結果としては山本の推理が正しかったようです。

 開戦直前には外波内藏吉も開発工場を離れて、イギリスの報道船に乗って諜報活動をおこない、のちには海外に出てバルチック艦隊を見張る重要な役目を果たしました。

 というわけで、この時期になりますと、製造から据付まで、木村駿吉自身が東奔西走の活躍をします。
 据付のために北は千島から南は台湾南端まで行ったそうです。もともとが電磁理論の専門家なのに、よくぞそこまでやったと、感心します。

 さて、山本英輔ですが、軍艦上でアンテナの試験を多く行い、重要な発見をいたします。

[続く]

▼海軍兵学校時代の山本英輔

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オロモルフ号の航宙日誌3967『小学生の日本神話288』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 8日(日)12時19分59秒
  ▼『古事記』の神話 上巻 大国主神10

<二、根の堅州国を訪問4>

 兄弟神たちはまたもや大穴牟遅神をだまして山につれて入り、そこにあった大きな樹を切り倒して割れ目にくさびを差し込み、広がった割れ目の中に大穴牟遅神を入らせました。
 そして、入ったとたんにくさびを抜いて、大穴牟遅神を殺してしまいました。
 大穴牟遅神が居なくなったので母親の刺国若比売は泣きながら探し求めたところ、割れ目に挟まれている大穴牟遅神を見つけ、その樹を裂いて取り出して生き返らせました。
 母親は、
「お前がここにいたら、兄弟たちに亡ぼされてしまうでしょう」
 と言って、すぐに紀国(きのくに/*1)の大屋毘古神(おおやびこのかみ/*2)のところへ人目を避けて避難させました。

*1:紀伊の国。

*2:木で造られた家屋の神ですが、ここでは紀伊の国の木の神でもあります。

[続く]
 

Re:白川郷その四

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 8日(日)12時18分19秒
  那須の権太さん、珍しい旅行写真、ありがとうございます。
日本の伝統文化が写真によって体験できます。
保存頁に保存させていただきたいと思っているのですが、なにしろ慣れないものですから、体調の良い時に時間をかけてやらないと出来ないと思います。
解法者さんの論考もだいぶ溜まっていて申し訳ないです。
しばらくお待ちください。
 

白川郷その四

 投稿者:那須の権太  投稿日:2009年11月 7日(土)18時08分46秒
   ここの人々は民宿や土産物屋などで生計を立ててゐるやうでした。水田もありますが平野部のやうな廣大なものではありませんので。

 山は(寫眞下)のやうな感じでした。この寫眞は白川郷より奧へ入つたところです。

 ではこれで今囘の旅寫眞の掲載を終ります。有難う御座いました。
 

白川郷その三

 投稿者:那須の権太  投稿日:2009年11月 7日(土)17時38分54秒
   見學用の建物以外はごく普通に人々の暮らしがありますね。
 それにしても觀光客がすごい數です。平日でしたが本通りに沿つて幾つかある駐車場はどこも滿杯で、しかたがないので村外れの臨時駐車場に止めるはめになりました。
 

オロモルフ号の航宙日誌3954『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 7日(土)12時59分13秒
  ▼次郎柿

 そろそろお店には柿が売っているようになりましたが、うちの次郎柿はまだまだです。たぶん今月末にならないとダメでしょう。
 下手すると霜でやられてしまいます。
 霜でやられますと、その後いくら待っても熟さなくなります。
 ですからやや早めに収穫して家の中に置くのですが、その時期がじつに微妙で難しいです。
 一方野鳥はそんな事にはおかまいなく、毎日突いており、もう四つか五つは皮だけになっております。
 人間用にも残しておいてほしいなあ・・・。

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オロモルフ号の航宙日誌3953『日露戦争と無線電信80』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 7日(土)12時56分57秒
編集済
  ▼日本海海戦における三笠の無線電信機の損傷19

 山本英輔が記録した日本海海戦の無線電信(其の一)

◎山本英輔の略歴

 明治9年5月15日生。昭和37年7月27日没。
 海兵24,海大5。
 日露戦争時第二艦隊参謀/大正8年軍令部参謀/大正10年艦政本部第二部長/大正12年海軍大学校長/大正13年第五艦隊司令官/大正14年軍令部/大正15年練習艦隊司令官/昭和2年軍令部・初代航空本部長/昭和3年横須賀鎮守府長官/昭和4年第一艦隊兼聯合艦隊司令長官/昭和6年軍事参議官・海軍大将/昭和9年議定官/昭和11年予備役
 山本権兵衞海軍大臣・総理大臣の甥だが閨閥とは関係なくきわめて有能な軍人として知られました。とくに注目すべきは技術面における先見性で、無線電信技術の開発・海軍航空の生みの親・通信関係の教育制度の確立など、多くの業績をあげました。日露戦争のときも無電技術で多くの実験を独自になして電離層発見の一歩手前まで行き、海軍では夜間になると電波が遠くへ届く現象を「山本現象」と呼びました。
 二.二六事件では微妙な立場でそれが退役を早めたとも言われます。一時は総理大臣候補とも言われたそうです。

◎無線電信の訓練

 新しい技術に興味を持つ人であり、第二回の士官のための無電訓練を水雷術練習所で受け、明治35年1月22日に修了しました。第一回は東京の海軍大学校構内ですから、横須賀でなされた訓練の最初を受講したわけです。

◎遣英使節の随艦に乗る

 この年、イギリスの王位を前年継いだエドワード七世の戴冠式が挙行されることになり、当時日英同盟を締結したばかりの日本は最大限の敬意を表するため戴冠式参列の日本代表として小松宮彰仁親王殿下をお願いし、お送りするために遣英艦隊が組織されました。それは同時にこの年の1月30日に調印発効した日英同盟の内容を詰める会議をロンドンで開催するためでもありました。
(このため陸軍では随員として福島安正参謀本部第二部長を同乗させて派遣しました。会議は伊集院五郎と福島安正が出席したわけです。このような努力の結果として、日露戦争で効果の上がった日英間の協定が出来あがったのですね。むろん山本権兵衞が強力に牽引したようです)
 遣英艦隊の指揮は当時の常備艦隊司令官伊集院五郎がとり、親王殿下は司令官とともに一等巡洋艦「淺間」にお乗りになりましたが、これには二等巡洋艦「高砂」が随いました。
(「淺間」は明治天皇の御召艦にも何回かなったことがあります)
 無線電信を習得したばかりの山本英輔(開戦時海軍大尉)は「高砂」に分隊長として乗り、出来たばかりの三四式無線電信機を設置して取り仕切りました。
(取り仕切ったといっても無電機を扱えるのは使節団で山本英輔しかいなかったと思います)

◎マルタ島での貴重な体験

 遣英艦隊は明治35年4月7日に横須賀軍港を出港。航路の途中で山本英輔は盛んに無電機を操作したようですが、物足りないものを感じたようです。とくにイギリスの無電機と比較する場面が有ったらしく、日本の無電機は劣勢だと悟りました。
 5月の末になって「淺間」と「高砂」は地中海に入り、5月27日にマルタ島に到着し31日に出港しましたが、マルタ島は英国海軍の基地であり、そこに英国軍艦が停泊しており、山本英輔は日英同盟の効果で、最大限見学させてもらえました。
 その結果として、山本は、日本の三四式が英国式にかなり劣っていることを痛感しました。また受信用のコヒーラを借りて実験してその優秀性を認識したりもしたようです。
 戴冠式参列(たぶん夏)を終えた小松宮殿下を乗せた遣英艦隊は8月末にイギリスを発ち、11月28日に横須賀に無事帰港しました。
 貴重な体験を得た山本英輔は、三四式無電機と英国無電機の性能を比較して、三四式は早急に改善を図る必要があるとの長大な意見書を書いて海軍省に提出しました。

[続く]

▼山本英輔肖像
(後の時代の写真です)

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Re:白川郷その二

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 7日(土)12時47分6秒
  五階建ての萱葺きとは凄いですね。骨組みはどうなっているんでしょうか。
清流もすばらしいですね。
昔は東京原宿の原宿川にも魚が泳いでいたそうですが、私が物心ついたころにはもう何もいませんでした。(今は暗渠になっていて川そのものが見えません)
 

Re:4.16 福引き(天平二年(730)正月)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 7日(土)12時46分7秒
   そうでしたか!
 宴席でのくじ引き賞品は奈良時代からちゃんと有ったのですね。
 たぶんその前からなんでしょう。
 世の中には、こういう事になると妙に張り切る人っていますね!
 幹事になってくじ引きするのが生き甲斐だったりして・・・。
 

白川郷その二

 投稿者:那須の権太  投稿日:2009年11月 7日(土)11時52分36秒
  (寫眞上)
 この建物は明善寺の隣にあつてお寺の庫裡になつてをり、郷土館を兼ねてをりました。中は五層になつてをります。
 ここは荻町といふ集落ですが、この集落の中でも最大級の建物で、縣指定の重要文化財です。

(寫眞中)
 神田家の建物。中を見學させてもらえます。有料ですが。

(寫眞下)
 道路脇の堀には清流が流れ、鱒などが群をなしてゐました。
 

奈良時代にこんなことが−一言主大神は語る

 投稿者:ハチマキおじさん  投稿日:2009年11月 6日(金)19時50分14秒
  4.聖武天皇の御代(724〜749)

4.16 福引き(天平二年(730)正月)
 正月十六日は、踏歌(とうか)節会で、足を踏みならしながら歌う宮廷宴会が開かれる日じゃ。この日の『続日本紀』は、次のような記事を載せておる。
「天皇は、大安殿に出御して、五位以上の官人を召して節会の宴を開かれた。夕方、皇后宮に移られた。百官の主典(さかん)以上は天皇に従い、踏歌を奏しながら皇后宮に向かった。天皇は官人を宮内に引き入れ、酒食を賜った。また、短籍(たんじゃく)を引かせた。短籍には、仁・義・礼・智・信の五文字が書かれており、その文字に従って物を賜った。仁を得た者には絁、義には糸、礼には綿、智には布、信には常布(じょうふ:商品用の布)が与えられた」
当時の皇后宮は、もとの藤原不比等邸で、平城宮の東隣にあり、後に法華寺となったところじゃ。大安殿からそこまで、踏歌の列が進んだわけじゃ。そして、踏歌の宴の一環として、福引きが行われたのじゃ。短籍は、短尺とも書き、短冊のことじゃよ。多くの木簡のいくつかに、仁・義・礼・智・信と書かれた木簡が混じっており、これを引き当てると賞品が下賜されたわけじゃ。短籍については、『続日本紀』の中でもこの記事にしか見られないが、福引きが踏歌節会の余興としてしばしば行われておったようじゃ。このような福引きはいつ頃始まったのじゃろうか。

 にぎやかに踏歌を奏して、高揚した気分の中で行われた福引きじゃ。当たったと言って歓声が上がり、はずれを引いては笑い声があがる。さぞかし盛り上がったことじゃろう。平和で楽しい正月の雰囲気が彷彿とされるようじゃ。それにしても、当たり籤が仁・義・礼・智・信とは、何とも道徳的で、籤のギャンブル性とのミスマッチが面白いじゃろう。

http://www12.ocn.ne.jp/~koushin/

 

オロモルフ号の航宙日誌3964『静電誘導法と変位法2』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 6日(金)12時15分47秒
   静電誘導法による無線通信の話ですが、説明が分かりにくかったかも知れませんので、ヘタな図を描いてみます。

  1          2      3(2〜3は同一導体)
 (+)        (−)−−−−(+)

 1の地点に、何らかの方法で+の電荷を起きますと、その先にある導体(金属)2〜3にも電荷が生じます。1に近い方にマイナス、遠い方にプラスの電荷が生じます。
(2と3はつながっています)
 これが静電誘導で、電磁気学の初歩なのですが、これを利用して無線通信をしようという考えが古くにあり、エジソンが走る列車との通信に成功したという話があります。
 で、この静電誘導を利用した無線通信は、理屈からは容易に考えられます。
 1の電荷をいじって、マイナスにするとかゼロにするとか、位置を大きくずらすとか、すれば、その影響で導体2〜3の電荷も変化します。
 その変化を検出すれば、情報が伝達するわけです。

 で、オロモルフの疑問なのですが、情報が伝達するには量はわずかであってもエネルギーが伝達しなければなりません。
 この方法だと、どういうメカニズムでエネルギーが伝達しているのでしょうか。
 ひとつ考えられるのは、マクスウエルが想定し後に確認されたという変位電流です。
 1を動かせば、それによる電場はかならず変化します。電場が変化するとdD/dtが価を持ちますから、変位電流が発生します。
 この変位電流自体が変化すれば、情報が送れるわけです。
 そういうわけで、「静電誘導による無線」は「変位電流を応用する無線」と同じことなのだろうか――というのが、私の疑問なのです。
 

オロモルフ号の航宙日誌3963『静電誘導法と変位法1』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 6日(金)12時14分12秒
   電磁気学に強い方がおられたら、どうか教えてください。
 昔から言われている電波を使わない無線通信法ですが、ある分類では、これを、

A 導電法
B 誘導法
 1 電磁誘導法
 2 静電誘導法

 ――のように分けています。

 このうち静電誘導法は、エジソンが走る列車との間の通信を成功させた方法がこれだったのだろうと言われています。本当かどうかは知りませんが。
 しかし疑問に思いますのは、静電誘導はあくまでも静電ですから、そのままではエネルギーは伝わりませんし、したがって情報は伝わりません。
 こちら側の電荷を何らかの方法で動かし、それによって相手側の電荷を変化させる必要があります。そうすると厳密な意味では静電ではなくなります。
 動かしますと、電場の変化が生じますから、dD/dtが価を持ち、変位電流が流れ、磁場が生じます。
 したがって静電誘導法でもし無線通信が可能だとすれば、それは必然的に変位法になるのではないか――という疑問なのです。
 あるいは、変位電流とは別の形で情報が伝わる静電誘導法があり得るでしょうか?

 最近は考える能力が激減しておりますし、身近に相談相手もいないものですから、ご意見をうかがいたいのです。
 

オロモルフ号の航宙日誌3962『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 6日(金)12時05分13秒
  ▼批判

 早朝のテレビを見ていますと、ようやく民主党批判が出始めましたね。
 視点はいろいろですが、司会者もしぶしぶ批判めいた事を言うようになりました。
 アメリカ大統領は怒ったフリをして来日を中止すればいいのにと思いますけど、オバマ大統領も芯の無い人のようで、アメリカでぐんぐん支持を減らしているようですね。
 口先男のように見えます。
 口先男vs宇宙人では、おそらく、不毛な来日になると思います。

▼チャンネル桜の掲示板

 出来た当時は私もいくつかのスレッドに書き込んでおり、勉強にもなりました。たとえば歌謡曲ファンの集まりとか靖国問題とか・・・。
 しばらくして、わたしが質問してもまったく無視されるので、一度は遠ざかりましたが、また復活してみようと、ある有能な方のスレッドに入れていただきましたが、まぜっかえす人がいたので嫌になり書き込みは中止しました。しかし勉強になる面はあるので、しばらくは見ておりました。
 ところが、去年あたりから、見かけは保守論客のようだが実態はそうではなさそうな人たちどうしのいがみ合いがあっちでもこっちでも始まり、ウンザリして、たまにしか見なくなりました。
 昨日チラッとみたら、またまたやっておりました。正直、正視に耐えない状況です。
 あのサイトの寿命はもう終わったと思います。はやく閉鎖しないと、無色透明な人たちや免疫の無い若者たちが保守論壇を嫌悪するようになるのでは、と心配です。

▼日本シリーズ

 清原と新庄の解説はおかしかったですね。
 漫才解説。
 アナウンサーが慌てるような発言が続出でした。
「野村監督の解説聞いてたら眠くなって寝てしまったよ」
「あいつのシュートは打てないので寿司をおごって「俺には投げるな」と言ったら投げなくなった。あいつはいい男だよ」
 ・・・などなど・・・。

▼温州ミカン

 もう食べられるようになりましたが、食べちゃ勿体ないので、眺めております。

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オロモルフ号の航宙日誌3961『小学生の日本神話287』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 6日(金)12時02分32秒
  ▼『古事記』の神話 上巻 大国主神9

<二、根の堅州国を訪問3>

 神産巣日之命によって派遣された△貝比売は、焦げて焼け石に貼り付いていた大穴牟遅神の身体をこそげ落として集めました。
 同じく派遣された蛤貝比売は、それに母乳を塗って生き返らせました。
 大穴牟遅神は、たちまち立派な青年になって、歩き出しました。
 これを見た兄弟神たちはさらに怒り、また殺そうと相談しました。

[続く]
 

Re:白川郷その一

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 6日(金)12時01分29秒
   那須の権太さん、ありがとうございます。
さすがは白川郷ですね。お寺さんも鐘楼も萱葺きなんですね。
ところでコントロール+エンドですが、一太郎で試してみたら、同じように機能しました。
共通する機能なのですね。知りませんでした。
 

白川郷その一

 投稿者:那須の権太  投稿日:2009年11月 5日(木)19時48分30秒
  オロモルフ樣

 ショートカットキーは機種によつて使ふキーが若干異なるやうですね。Endの代はりにHomeを使ふとトップに戻ります。ワードばかりでなく、例へばこの板でも使へますから、他の皆さんもやつてみて下さい。自分の投稿を編輯したいときなど一發で最下段へ飛べますから便利です。(え?そんなの知つてるつて?こりや失禮しました・・。)

 ところで、那谷寺の名の由來ですが、先生の仰る通りです。で、名付けた方が花山法皇なのですね。寛和二年ださうです。それまでは開祖泰澄法師の命名で、岩屋寺と呼ばれてゐたさうですね。往時は寺院二五〇ヶ坊に及ぶ隆盛ぶりだつたさうです。
 その後、謂はゆる南北朝の爭ひや一向一揆などで燒き盡くされて仕舞ひました。暫く興廢したまゝだつたやうですが、江戸寛永年間にそれを嘆いた加賀藩主前田年常公が後水尾天皇の敕命を仰ぎ復興させたとのことですね。

 さて、「白川郷」です。合掌造りです。
 合掌造り集落は岐阜県大野郡白川村の他、富山県南砺市の五箇山(ごかやま)があります。どちらも世界遺産です。

(寫眞上)
 こんな感じで立ち竝んでゐます。

(寫眞中)
 これお寺です。眞宗大谷派明善(みょうぜん)寺。お寺も萱葺きですね。

(写真下)
 これは明善寺の鐘楼です。こちらも見事な萱葺き屋根です。
 

オロモルフ号の航宙日誌3960『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 5日(木)11時30分17秒
  ▼疲れてしまって・・・

 今日はお休みです。
 昨日はインフルエンザの予防注射をしに、近くの医院まで行きました。インフルエンザといっても新型ではなく普通の方です。一ヶ月前に予約しておきました。
 で、夕方薄暗くなってから行ったのですが、待合室はマスクをして咳をしているような人で満員で、あと一時間以上と言われて、座る場所も無いのでいったん家に帰りました。
 で、しばらく休んでから出直し、なんとかすませました。
 往復に徒歩30分以上かかる所なので、暗くなってから一時間以上歩いたことになります。
 それが昨日で、その前の一昨日は、急にカラーコピーを取る必要が生じて、駅の近くのコンビニまで行きました。そこでカラーコピーを5700円分も取って家に帰り、それから蘭姫の散歩に行きました。
 合計して二時間くらい続けて立ったり歩いたりしたことになります。
 そういうわけで、すっかり疲れてしまったのです。
 とくにコンビニのコピー機の前に立っていた時が、一番疲れました。家内に手伝ってもらったのですが、家内も気分が悪くなってきたようです。
 空気が悪いんでしょうか。
 そういうわけで、今日は日本神話も日露戦時の無電機の話も書く元気がありません。
 すみません。

▼訃報

 訃報が届きました。
 大学で同クラスだった友人がまた一人鬼籍に。
 アメリカンフットボールの選手で理学博士という文武両道の快男児でした。
 クラスメートも次第に減り、ずいぶん寂しくなりました。
 

Re:誰〜もイギリスの刑事司法制度のことは言わない(11)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 5日(木)11時27分20秒
   なるほど、国によって大きく違うことは理解できます。
 これに共産諸国や元共産圏も加わりますし、アラブ諸国もありますし、ずいぶん変化に富んでいると思います。
 中国では拷問が凄いという体験者の話も聞きましたし・・・。
 特許制度の歴史を前に調べましたが、法律が出来る前段階ではフランスの影響も有ったようですが、アメリカ在住経験のある高橋是清によってアメリカに近い形が出来、しばらくしてドイツに極めて近い形になって、ずっと続きました。
 戦後はアメリカの強引な裁判戦術によって辛酸をなめ、苦労続き。
 日本の裁判制度は、やはり日本の長い歴史に基づいた独自の思想を持つべきですね。
 

最後の文字まで

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 5日(木)11時26分14秒
  那須の権太さん、ありがとうございます。
ためしにコントロール+エンドでやってみたら、出来ました!
 

誰〜もイギリスの刑事司法制度のことは言わない(11)

 投稿者:解法者  投稿日:2009年11月 4日(水)13時25分27秒
   最後に、日本の「人権主義者」がイギリスの刑事司法制度のこと
は言わない理由をもう一度おさらいしてみよう。
1.イギリスでは「三権分立」が確立しておらず、議会(立法府)、
 政府(行政府)の二元体制となっており、裁判権はその下に立つ。
2.法曹が「ソリシタ」という特権階級により形成され、上級裁判所
  の「裁判官」も彼らに独占されており、民主的が運営がなされていない。
3.裁判の主要を占める「治安裁判所」は一定の階級、つまり富裕層
 などから成る「素人裁判官」の手によって構成されている。
4.逮捕・捜索の令状が捜査機関独自で発布できる。
5.黙秘権の保障がない。

 法制度に限らず、制度というものはその国の長い間の歴史・文化
そして民族性に裏づけされたもので、どの国の制度が優れているなど
と言うのは間違っている。例えば、アメリカ・イギリスなどの英米法
諸国では被疑者・被告人の人権が最優先され、事実の究明はその上
に立つという法思想が培われている。これに対し、フランス・ドイツ
などの大陸法諸国では真実の究明こそが至上目的とされ、被疑者・
被告人の人権はそれに立った上でのものとされる。つまり、真実
究明がなされれば、自ずから冤罪などが無くなり被疑者・被告人
の人権がまっとうされるというのである。前記のとおりイギリス
ではこうした偏った人権主義が真実究明のみならず治安の悪化を
招いているとしてその思想を修正しつつある。これもその依って
立つ法思想も変革を許さない磐石なものではなく、時の政治情勢・
社会情勢によって揺れ動いていることを示している。日本もかつて
は大陸法思想を基盤としていたが、アメリカの侵略により英米法
思想が採り入れられた。しかし、長い間の法思想はそう簡単に
しかも劇的に変革できるものではなく、大陸法思想と英米法思想
が並存しているという世界的に見ても極めて珍しいものとなって
いる(そのため、欠陥も露呈している)。
 

最後のページの表示

 投稿者:那須の権太  投稿日:2009年11月 4日(水)13時04分41秒
  オロモルフ樣

最後のページといひますか最後の「文字」まで一氣に飛ばすには、「Ctrlキー」+「Fnキー」+「Endキー」では如何でせうか。
 

オロモルフ号の航宙日誌3959『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 4日(水)11時27分30秒
  ▼昨日のこと

 昨日は最近では珍しく良い事がありました。
 これまで半分は諦めていた資料が、入手出来たのです。
 といっても、インターネットからのダウンロードでは字がぼやけていて読めない資料の、読める複写が入手できたという、ふつうの人から見るとバカバカしい話なんですけど。
 そのほかにも良いニュースが有ったのですが、またいずれ・・・。

 世の中はますます変になっていて、子孫が気の毒でなりません。
 私も責任を感じますけど、出来る事には限界があり残念です。
 まあ私としては、若い人が日本人としての誇りを持ってくれるような本を書いて後世に残したいと思っております。それしか出来ませんので・・・。

 子孫といえば、孫の将棋はドンドン強くなっています。もう私とたいして変わらない実力になってきました。
 これは漫画の効果ですね。
 漫画将棋入門という本を与えたら、とてもよく分かったらしく、熱心に読んでおります。文字だけの本は、内容がいくら易しくてもダメです。表現が易しく文字が易しくてもダメなのです。また、同じ漫画でも、解説漫画ではダメです。漫画将棋入門という本は、妖怪なんかが出てくる冒険漫画の中に将棋の話が組み入れられているのです。
 良書だなあ・・・(笑)

▼鬼ユズ続き

 まったく変わり映えしなくて恐縮です。

 ↓↓↓↓↓
 

オロモルフ号の航宙日誌3958『日露戦争と無線電信79』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 4日(水)11時24分58秒
  (ちょっと横道に入りますが、日露戦争における無電の最初を調べてみます)

▼日露戦争最初の無電

 日露戦争における最初の海底ケーブル使用としては、前に『国際通信の日本史』に書きましたが、明治三十七年一月十五日の夕刻、沖縄丸の決死の敷設で、佐世保から八口浦までの海底ケーブルが完成しました。
 この完成を知らせる電報を八口浦から佐世保の聯合艦隊まで打電したはずで、これがおそらくは日露戦争における最初の海底ケーブルによる軍事電報だったと思います。
 むろん練習や事務連絡の類は別です。

 では、無電の最初は何だったのでしょうか。
 明治三十七年の一月ごろに、それまでの三四式無電機を三六式に改修したり新設したりする仕事が急ピッチで進められ、一月の終わりには主要軍艦への三六式装備は完成していたようです。
(ただしこの時期にはまだ生産が間に合わないため三四式のままの軍艦もありましたし、三四式の一部を三六式部品に取り替えて性能向上を図った準三六式もありました)

 無電機据付時の検査や練習のための無電送受は別にして、軍事連絡としての無電の最初の記録は、少なくとも旗艦三笠としては、二月八日のようです。
「軍艦三笠戦時日誌」の明治三十七年二月八日の條に、次のようにあります。

**********

此日午後四時左ノ無線電信命令アリタリ
 戦隊ハ今夜ノ予定航路ヲ変シ、午後六時迄前進シテ六時ヨリ速力ヲ十海里トナシ、
 左十六点ニ正面ヲ変シ午後八時右八点ニ正面ヲ変シ、午後十時北八十五度西ニ変針、
 午前五時北十五度西ニ変針、老鉄山ニ向フ 針路ノ変換ニハ信号ヲ用イス
 其時刻ニ至レハ先頭隊ヨリ逐次ニ変針スルモノトス
 序列ハ第三戦隊先頭トシ、第一、第二戦隊之ニ次ク 各隊ノ間隔ハ三千米突トス

(八点は90度、十六点は180度。老鉄山は旅順のある遼東半島先端らしいです。聯合艦隊司令長官は三笠に乗っていますから、その命令は三笠の無電機から出ているのですが、三笠そのものもやはり聯合艦隊司令長官からの命令を受けて運航しているわけです。つまり東郷司令長官と長官が乗っている三笠とは別の次元なのですね。聯合艦隊は六日に佐世保を出撃、この無電のあった八日から翌日九日にかけての旅順攻撃が日露海戦の最初です)

**********

▼参考図

 上の記録がたぶん、戦闘開始されて最初の軍事無電だと思います。
 この無電で指示された航路の図は写真(上)の通りです。
 また、戦闘開始直前に敵味方が遭遇した時の識別のための暗号が決められました。それが写真(下)です。
 右から、旗旒信号用、発光信号用、手燈用、言語用です。
 こういう種類の符丁、暗号もほとんどすべて秋山眞之が決めたらしいですね。若い参謀が手伝いましたが。とにかく秋山眞之の当時の仕事量は凄まじいものがあったらしく、戦後疲れが出たのは当然です。
 

Re:那谷寺

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 4日(水)11時19分15秒
   なるほど、そういう奇岩絶壁の山にあるのですか!
 重要文化財がいくつもあるお寺なのですね。
 仏教辞典で見ると芭蕉の句に、
「石山の石より白し秋の風」
 ――とあるそうですね。
 あと、名前の由来は、西国三十三所の一番那智山と結番谷汲山の頭文字をとったとか。
 ところで私はワードというのは初めていじるのでとまどっているのですが、ある文書(ファイル)の最後の頁を簡単に出すには、どういう方法があるのでしょうか。いまは順にずらして最後を出しているので、いささか面倒なのです。
 

Re:4.13 厭魅呪詛(えんみじゅそ)の厳禁(天平元年(729)四月)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 4日(水)11時17分40秒
   たしかに、呪詛の効果が信じられていた時代では、これは恐ろしい事だったでしょうね。
 こういうものが信じられなくなってきたのは、いつごろからなんでしょうか。
 もっとも現在でも信じている人はたくさんいて、だからテレビの超常現象番組が廃らないのでしょうけど。
 呪詛が効果を持つ話をSFとすると、源氏物語もSFになるんです!
 

那谷寺その二

 投稿者:那須の権太  投稿日:2009年11月 3日(火)22時42分55秒
  オロモルフ樣

永平寺の梵鐘の音は、やはりとても腹に響く重厚なものでした。安い鐘はカランカランと、それはそれはとても輕い響きですよね。(笑)

那谷寺つゞきます。

(寫眞上)
 「奇岩遊仙境」と謂ひます。まるで水墨畫のモチーフのやうな景觀ですよね。本殿もこのやうな岩窟の中にあります。

(寫眞中)
 那谷寺三重の塔です。これも國指定重要文化財です。

(寫眞下)
 那谷寺山門です。

以上、那谷寺の寫眞はこれでお終ひです。この時間にはもう疲れてしまつて撮る氣力がなくなりました。(とほほ・・)

次囘は世界遺産「白川郷」です。
 

奈良時代にこんなことが−一言主大神は語る

 投稿者:ハチマキおじさん  投稿日:2009年11月 3日(火)17時10分40秒
  4.聖武天皇の御代(724〜749)

4.13 厭魅呪詛(えんみじゅそ)の厳禁(天平元年(729)四月)
 四月三日に天皇は次のような勅を出された。恐らくは前項で述べた長屋王の事件が引き金になったのじゃろう。
「内外の文武百官と一般人民のうちで、異端の道を学び、幻術を身につけ、厭魅呪詛(えんみじゅそ)して人を害し傷つける者があれば、主犯は斬刑に、従犯は流罪とせよ。また、僧尼のうちで、山林に住み着き、仏道修行と偽って邪法を学び、それを伝えて呪法を授け、呪文を書いて封印し、あるいは薬を調合して毒薬を作り、種々の怪しげなことをし、詔で禁じていることを犯す者があれば、罪は同罪とせよ。さらに、妖術などの書物は、この勅が出てから五十日以内に届出よ。もし、期限内に届けずに、後に密告された者があれば主・従を問わず皆ことごとく流罪とする。密告したものには絹三十匹を褒賞としよう。その絹は罪人の家から徴する」
いかがかな、朝廷が厭魅呪詛いわゆるまじないで人を呪う行為を恐れていたことが分かるじゃろう。この勅は三つの部分からなっておる。まずは一般人を対象としたもの、僧尼に対するもの、そしてまじないの書物(妖書)の所有じゃ。僧尼とは行基の率いる集団との指摘もあるようじゃが、もっと広くその他の僧尼にたいしても禁止していると考えるべきじゃろう。言いかえると全国民を対象としているわけじゃ。それほど広く厭魅呪詛が行われていたと言うことなのじゃ。厭魅は、人形(ひとがた)などにより他人に危害を加えるまじないであり、呪詛はそれを用いて呪うことである。養老律令の賊盗律17によれば呪詛で人を殺そうとすれば懲役刑、もし死ねば殺人罪で斬刑となっておる。また、賊盗律21によれば妖書を作れば遠流、またそれを用いて民衆を惑わせても遠流となっておる。

 このように律によって厭魅呪詛の刑罰が定められておると言うことは、厭魅呪詛が一般に広く行われており、それが有効であると考えられておったからじゃ。誰じゃ、「そんなに効き目があるのなら身につけたい」などと言う奴は。「人を呪わば、穴二つ」という。朝廷が禁じるように、決して良いことではないからの。ただし、科学の進歩に反比例して呪いの効果は減少してきたようじゃ。

(追記)この項目(4.13)をとばしていました。したがって、「天平と改元」は4.14で、「光明皇后誕生」が4.15です。訂正させて頂きます。失礼しました。

http://www12.ocn.ne.jp/~koushin/

 

オロモルフ号の航宙日誌3957『文化の日』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 3日(火)11時36分51秒
   今日は快晴で、国旗が青空に映えています。
 テレビで騒々しいタレントを見ていますと、日本の文化ってどこへ行ってしまったのか、と思いますけど・・・。
 

オロモルフ号の航宙日誌3956『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 3日(火)11時34分59秒
  ▼給湯器設置

 昨日は朝からこれだったので、すっかり疲れました。
 蘭姫もずっと小屋の中。
 相当な出費ですが、しかたありません。
 これがないと風呂が沸きませんから・・・。
 ああ金欠病!
 減額年金からさらに介護保険料をたっぷり引かれて、ちっとも面倒を見てもらえません。

▼ドラゴンズが六選手に戦力外通告したそうです。

 中里篤史投手(27)
 中村公治外野手(28)
 小川将俊捕手(30)
 佐藤亮太投手(26)
 菊地正法投手(25)
 樋口賢投手(19)

 みんな入った時は期待された選手なんですけど、芽が出ませんでした。
 このうち上の五人は必死にやったけどダメだった。
 最後の選手は自分から辞めてしまったらしいです。自信を失ったのでしょう。
 諸行無常です。

▼鬼ユズ

 べつに鬼ユズが好きなわけではないのですが、目立つのです。

 ↓↓↓↓↓
 

オロモルフ号の航宙日誌3955『小学生の日本神話286』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 3日(火)11時31分8秒
  ▼『古事記』の神話 上巻 大国主神8

<二、根の堅州国を訪問2>

 大穴牟遅神が焼け石に張り付いて死んでしまったのを知った母親の刺国若比売は嘆き悲しんで天に参上し、神産巣日之命(*1)に訴えました。
 すると神産巣日之命は、すぐに、△(刮の下に虫)貝比売(きさかいひめ/*2)と蛤貝比売(うむかいひめ/*3)を地上に遣わして、大穴牟遅神を生き返らせるようになさった。

*1:造化三神の一柱。もっとも原初の神。

*2:△貝(きさかい)は赤貝のことだそうです。で、「きさぐ」とは「こそげる」という意味で、赤貝の殻には刻(きさ)があるので言うそうです。ですから△貝比売は赤貝の擬人化で、「こそげる」能力を持っていることになります。

*3:蛤の擬人化。蛤(うむ)と母・乳母(おも)をかけているらしいです。

[続く]
 

re:那谷寺その一

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 3日(火)11時25分55秒
  那須の権太さん、つぎつぎに寺院めぐり、ありがとうございます。
那谷寺ってわたしは知らなかったので、仏教辞典を見てみました。
昔から有名なお寺で、芭蕉が句を詠んだりもしているのですね。
国の重要文化財の建築物もあり、歴史を感じます。
 

那谷寺その一

 投稿者:那須の権太  投稿日:2009年11月 2日(月)20時25分54秒
   永平寺の旅の寫眞は前囘で終了です。
 つゞきまして「那谷寺(なたでら)」の寫眞を掲載します。
 石川縣小松市にある那谷寺は高野山眞言宗の別格本山です。山號は「自生山」。眞言宗ではありますが、本來は山嶽修驗「白山(はくさん)信仰」の寺で、養老元年、越の大徳(たいとこ)、泰澄神融(たいちょうじんゆう)法師による開創です。

(寫眞上)
 金堂華王(けおう)殿。六五〇年前に消失したままになつてゐたさうですが、山嶽白山信仰の復興を願つて平成二年に再建されたものださうです。
 本尊は十一面千手觀音で、白山曼陀羅、泰澄神融法師、そして那谷寺中興の祖と謂ふべき「花山法皇」をお祀りしてあるさうです。

(寫眞中)
 金堂の菊の御紋。花山法皇は自らこの地に居を構へられたさうです。

(寫眞下)
 大悲閣(だいひかく)拜殿。奧は岩窟になつてをり、本殿は岩窟内にあります。建築樣式は「四棟舞臺(しとうぶたい)造り」です。四方の欄間に浮彫りが施されてをり、鹿、鳳凰、鶴、松、竹、梅、橘、紅葉などの花鳥が配されてゐます。國指定、重要文化財です。
 

オロモルフ号の航宙日誌3954『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 2日(月)09時39分44秒
  ▼指名選手の解説3
(ドラゴンズ球団のサイトから)

◎育成1巡目指名選手
【氏名】 矢地 健人(やち けんと)
【年齢】 21歳
【位置】 投手(右・右)
【身長】 180センチ
【体重】 68キロ
【所属】 高岡法科大
スリークォーターからのストレートは威力有り、変化球が課題

◎育成2巡目指名選手
【氏名】 赤田 龍一郎(あかだ りゅういちろう)
【年齢】 21歳
【位置】 捕手(右・左)
【身長】 178センチ
【体重】 80キロ
【所属】 愛知大学
打撃に魅力、スローイングも正確で体にキレが出てくれば楽しみ

 育成枠は70人枠に入らない選手ですが、育成枠から一軍になった選手もいるわけですから、期待しようと思います。
 順序は下位ですが今年は捕手を三人とっています。
 谷繁の後継者が育っていないドラゴンズとしては、今年入った三人に育ってほしいです。

 ちょっと面白いのは三巡目指名の中田亮二選手で、公称171センチで115キロもあり、現在のプロ野球での最重量だそうです。しかし意外に足は速いらしい。
 一塁ですから出るのは大変ですが、体重を生かして活躍してほしいです。

▼ガス湯沸器

 浴槽用の湯沸器がとうとう壊れてしまいました。
 もう15年以上使っていますので、そろそろ壊れるだろう――と心配していたのですが、一昨日、それが実際となりました。
 業者を呼びましたが、もう古くてどうしようもないという話。
 で、泣く泣く新しくすることにしました。
 今日据え付ける予定です。
 値段が高いので、どうやって払ったらいいのやら、金欠病で情けない有様です。
 わたしの年金は減額年金でしかも最近は介護保険料を天引きされてますます減っております。
 民主党政権になってもいっこうに改善される気配はありません。
 

オロモルフ号の航宙日誌3953『日露戦争と無線電信78』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 2日(月)09時39分0秒
  ▼日本海海戦における三笠の無線電信機の損傷18

『軍艦三笠戦時日誌』における無電受信以外の記述(其の十四)

 日本海海戦の戦後処理が一段落した三笠は、戦場から鎮海湾→佐世保→鎮海湾と移動して、六月七日の夜以後しばらくは鎮海湾に待機しました。
 六月十日も鎮海湾にいましたが、その日の戦時日誌につぎのようにあります。

**********

午後五時三十分 総員前甲板整列 日本海海戦ニ於テ殊功アリシ無線電信機三等兵曹窪田新助ニ特別善行章ヲ授与シ終テ艦長訓示アリ 其要次ノ如シ

 艦長訓示(総員於前甲板)

一、無線電信係リ窪田兵曹ニ去ル五月二十七日、二十八日、日本海海戦ノ際無線電信
  取扱ヒノ功績ニ対スル特別善行章授与申渡シノ後
  窪田兵曹カ本日名誉ノ特別善行章ヲ得タル 無線電信ハ此度ノ大捷二関シテ尤モ
  顕著ナル機関ナリキ 敵艦隊ヲ発見シタル後能ク是レト接触ヲ保チ我カ主戦艦隊
  ヲ導キテ遂ニ会戦全滅ノ機会ヲ得セシメタルハ一ニ無線電信ノ賜ナリ 抑モ無線
  電信カ我カ各艦装備セラレシハ昨年出征ノ少シク前ニシテ其ノ果シテ戦時ニ於テ
  モ有効ナリヤノ疑問ハ当時未タ決セラレサルニ日露干戈ヲ交ユルニ至リシカ出征
  以来種々ノ場合ニ使用シテ得タル効果尠カラス 殊ニ今回大捷ノ動機ヲ与エタル
  カ如キ是ニ至リテ吾人ハ等シク其ノ創案者タル「マルコニー」其人ニ対シ感謝シ
  テ措カサル所ナリ
  但シ無線電信機ニ就テハ尚ホ多ク進歩スヘキ余地ヲ有ス 仮ヘハ是ニ依リテ発信
  艦所在ノ方向ヲ覚知スルカ如キ、或ハ有効距離ヲシテ更ニ遠大ナラシムルカ如キ、
  又空中電気ヲ識別スルカ如ク其他欲スル所枚挙ニ暇アラサルヲ以テ将来益々研究
  シテ該機ノ至大ナル発展ヲ見ム事ヲ望ム
  惟ニ無線電信ノミニ非ス 砲術、水雷術、機関ニ於テモ亦然リ 既ニ其筋ニテモ
  敵カ一縷ノ望ヲ嘱セシ「バルチック」艦隊全滅ノ結果、戦局ノ終末モ甚タ遠カラ
  サルヘキヲ察シ新タニ練習生ノ募集サレタルヲ見ル 蓋シ新知識ノ普及ヲ得ンカ
  為メナリ 願クハ夫レ夫レ所志ヲ定メテ奮励シ可及的多数ノ志願者在ランコト望
  ム(二、以下略)

(国としての褒賞はあれこれ有り、このあと大量の叙勲褒賞がなされたのですが、この無線電信係窪田兵曹への特別善行章は珍しいと思います。おそらくこれは艦長としての独自の褒賞でしょう。確言はできませんが、無電機の前に座って受信電文を上官に渡し、また上官からの命令で電文を送信する役目は大砲を撃ったりする役目に比べて目立ちませんから、軍としての褒賞にはなりにくく、そこできめ細かく配慮することで知られた伊地知彦次郎艦長は、独自の賞を与えたのではないか、と思います)

**********

 ここで参考までに、他の資料から分かります三笠の無電関係の担当者を記しておきます。

 開戦時から黄海海戦のころまでは、士官としては、
 白根熊三大尉(明治34年4月25日に無電訓練終了)
 市川節太郎中尉(明治36年8月1日に無電訓練終了)
 市川中尉が当時の無線電信主任で、黄海海戦で重傷を負っています。
 士官のもとで操作する担当者は不明です。

 日本海海戦時においては、士官としては、
 清河純一大尉(聯合艦隊参謀の一人で無電や信号担当/当時軽傷)
 森初次大尉(明治34年4月25日に無電訓練終了)
 この二人以外は不明ですが、訓練修了士官があと一人いたかもしれません。重要な軍艦ですから、訓練終了士官が一名のみとは考えにくいです。黄海海戦で減ってしまったら別ですけど。
 士官以外としては、
 窪田新助三等兵曹(明治35年11月20日に無電訓練終了。87点という最終試験成績が記録にあります)
 岡部吉之助一等兵曹(無電訓練有無は不明/無電室で軽傷)

 無電の訓練は水雷術練習所で全力を振り絞ってはいたものの、とうてい十分な人数の訓練は出来ず、したがって無電係といっても軍艦上で経験者から初めて教わる士卒が多かったのではないかと思います。とくに現場に詰めて無電機を扱うオペレータはそのようだったのではないか、と思います。

(以上で三笠戦時日誌に見られる無電関連の記事引用を終わります。つぎは戦時日誌以外の一次資料から無電関連を抜萃いたします)
 

re:永平寺

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 2日(月)09時37分31秒
  那須の権太さん、つぎつぎに興味深い写真をありがとうございます。
下の正門が、意外なほど質素というかこぢんまりしているのですね。
そのあたりのちょっとしたお寺さんと変わらないようですが、その奥がすごいのですね。
こんな大きなお寺の鐘、一度は衝いてみたいです。低い音がするのでしょうか。
前に近くの神社に鐘楼があってで衝いてみたことありますけど、派手な音がしたので恥ずかしくなりました。
 

永平寺その六

 投稿者:那須の権太  投稿日:2009年11月 1日(日)17時27分37秒
  (寫眞上)
 祠堂殿登り口を正面から撮つたものです。

(寫眞中)
 參道脇を流れる永平寺川です。

(寫眞下)
 そしてこれが日本曹洞宗大本山、吉祥山永平寺正門であります。
 

永平寺その五

 投稿者:那須の権太  投稿日:2009年11月 1日(日)16時46分42秒
  (寫眞上)
 最初にご紹介した通用門の階段登り口のすぐ右脇にある「一葉(いちよう)觀音」です。昭和四七年に開眼供養が行なはれたまだ新しいものですね。
 道元禪師が宋より歸朝の際、荒れた海で苦しんでゐた時、觀音普門品偈(かんのんふもんぽんげ)を唱へると一葉の觀音が現はれ、波も靜まつたといふ因縁があるさうです。

(寫眞中)
 木陰に見える「祠堂殿(しどうでん)」に致る石段ですが、全國の信者からの位牌が納められてゐるので、一般觀光客は入れません。

(寫眞下)
 ここが鐘樓です。誰でも自由に撞くことが出來ます。昭和三八年に改築されたものださうです。大梵鐘は口徑1.5メートル、高さ3メートル、重さ5トンの巨鐘です。定期的には朝、晝、夕、夜の一日四囘、鐘點(しょうてん)といふ係の修行僧によつて撞かれるそうです。
 (寫つてゐるのは私の旅仲間の一人ですが、顏は消してあります。)
 

re:永平寺

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 1日(日)13時14分42秒
  那須の権太さん、すばらしい永平寺のお写真、ありがとうございます。
わたしも参詣に行きたいですけど、もう無理です。残念。
白いもやもやみたいなもの、確かに写っておりますね。
さて、何なのでしょうか。
写真の物理に強い方、推理していただけないでしょうか。
 

オロモルフ号の航宙日誌3952『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 1日(日)13時13分0秒
  ▼指名選手の解説2
(ドラゴンズ球団のサイトから)

◎5巡目指名選手
【氏名】   大島 洋平(おおしま ようへい)
【年齢】   23歳
【位置】   外野手(左・左)
【身長】   176センチ
【体重】   74キロ
【所属】   日本生命
【出身大】 駒澤大
大学時代から打撃はパワーがないが、安打製造機、
足も速く、強肩である。

◎6巡目指名選手
【氏名】   諏訪部 貴大(すわべ たかお)
【年齢】   21歳
【位置】   投手(右・右)
【身長】   178センチ
【体重】   83キロ
【所属】   Honda
【出身校】 中越高
球質、球威も良く、スライダー主体の投球、
身体も丈夫で素材は良い。

◎7巡目指名選手
【氏名】   松井 雅人(まつい まさと)
【年齢】   21歳
【位置】   捕手(右・左)
【身長】   179センチ
【体重】   78キロ
【所属】   上武大
【出身校】 桐生第一高
強肩、強打の捕手、送球に安定感があり、
パンチ力ある打撃が魅力。

◎8巡目指名選手
【氏名】 吉田 利一(よしだ としかず)
【年齢】 22歳
【位置】 捕手(右・左)
【身長】 178センチ
【体重】 72キロ
【所属】 奈良産業大
大学1年生から捕手として出場し、リードが良く
打撃はセンター中心に広角に打てる

(ちょっと気になる報道があります。それは6巡目の諏訪部投手が、6巡目という順番に不満を述べているということです。スポーツ新聞の報道の真偽は不明のことが多いので何とも言えませんが、もしそういうわがままと言うのなら、入れない方が良いと思います。五巡目まではどの球団も指名しなかったのですから・・・)

▼花ユズ

 少しずつ黄色くなってきています。
 最近、ヒヨドリらしい鳥が次郎柿を食べています。これで二個目が皮だけになりました。
 しょうがないなあ・・・。
 まだ渋いんですけど、今年は鳥が空腹なんでしょうか。
 もっと熟してきて秋が深まってからなら毎年食べておりますが、こんなに早く食べられるのは始めてです。

 ↓↓↓↓↓
 

オロモルフ号の航宙日誌3951『小学生の日本神話285』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 1日(日)13時10分4秒
  ▼『古事記』の神話 上巻 大国主神7

<二、根の堅州国を訪問1>

(ここから、大穴牟遅神に降りかかる大きな苦難の物語になります。この苦難を経て大穴牟遅神は大国主神になるのです)

 大穴牟遅神の大勢の兄弟に結婚を迫られた八上比売は、申しました。
「わたしはあなたがたとは結婚はいたしません。大穴牟遅神と結婚いたします」
 これを聞いた兄弟神たちは怒り、大穴牟遅神を殺してしまおうと、相談します。
 そして伯耆の国(ほうきのくに)の手間(てま/*1)の山に着いたとき、大穴牟遅神に、
「赤い猪がこの山にいる。われわれは上から追いかけて下りるから、お前は下で待ち受けて捕まえなさい。もし捕まえなければ、お前を殺すぞ」
 ――と命令しました。
 それから兄弟神たちは、猪に似た大きな石を火で焼いて、転がり落としました。
 それを大穴牟遅神が捕まえたところ、たちまちその焼け石で焼かれて、石に張り付いて死んでしまいました。

[続く]

*1:現在の島根県西伯郡会見町天万だそうです。

(凄いことになってきましたね!)
 

永平寺(餘談)

 投稿者:那須の権太  投稿日:2009年10月31日(土)18時49分12秒
  オロモルフ樣
「その四」寫眞下の説明に書き漏らしたことがあつたので追加させていたゞきました。

 それとは別に、法堂内部の寫眞を見てゐて氣づいたのですが、この寫眞に白いモヤモヤした玉が幾つも寫つてゐますよね。先生はこれ何だと思はれますか?
 よくトンデモ話で謂はれるのが「オーブ」です。何かの靈気が寫り込むんだとか・・。でもだいたいは水蒸氣や空中のほこりがストロボの光に反射して寫り込むものなんですよね。ただ、これを撮つた直後に少し角度を變へてもう一枚撮つてゐるのですが、そちらには何も寫つてゐないのです。

 先生や他の皆さんはどう判斷されますか?實は、先に掲載した「山門」の廻廊の寫眞にも似たものが寫つてゐます。でもこちらの方はレンズゴーストだと思ひます。寫眞の中央附近です。面白いので三枚竝べて掲載してみます。
 

永平寺その四

 投稿者:那須の権太  投稿日:2009年10月31日(土)13時25分7秒
編集済
  「その三」で書き漏らしましたが、北朝後圓融天皇からの敕額「日本曹洞第一道場」はその後、第一〇五代後奈良天皇より「日本曹洞第一出世道場」として追認を賜はり、さらに第一〇七代後陽成天皇より重ねて「日本曹洞の本寺竝びに出世道場」の諭旨を賜はつてゐます。

(寫眞上)
 永平寺七堂伽藍のうち最も小高い場所にある「法堂(はっとう)」の内部です。
 ここは禪師の説法の道場ださうで、朝の勤行や各種法要などもここで行なはれるさうです。中央には「聖觀世音菩薩」が祀られてゐるさうです。階段の左右に置かれてゐるのは阿吽の白獅子です。

(寫眞中)
 左側の建物は先にご紹介した「佛殿」ですが、その奧に見えるのが「大庫院(だいくいん)」で、ここの一階には食事を作る「典座寮(てんぞりょう)」と呼ばれる臺所、二階には來賓接待の間があり、三階には「菩提座(ぼだいざ)」と呼ばれる一五〇疊敷の大廣間があります。

(寫眞下)
 大庫院の入り口を入つたところにある「法喜禪悦」の額。永平寺六七世元峰禪師による揮毫です。中央に祀られてゐるのが足の早さで有名な「韋駄尊天(いだそんてん)」です。この裏で一山大衆、すなはち修行僧や參籠者の食事である三度の「弁食(べんじき)」が作られてゐます。
 

オロモルフ号の航宙日誌3950『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年10月31日(土)11時18分55秒
  ▼指名選手の解説1
(ドラゴンズ球団のサイトから)

◎1巡目指名選手
【氏名】 岡田 俊哉(おかだ としや)
【年齢】 17歳
【位置】 投手(左・左)
【身長】 181センチ
【体重】 69キロ
【所属】 智弁学園和歌山高
制球力抜群で強い球を低めに投げられる。
故障もなく、3年間コンスタントに先発として投げる。
完投能力もあり、将来先発として投げられる素材。

◎2巡目指名選手
【氏名】 小川 龍也(おがわ りゅうや)
【年齢】 18歳
【位置】 投手(左・左)
【身長】 182センチ
【体重】 70キロ
【所属】 千葉英和高
腕の振りが良く、投げ方がスムーズ、
コントロールが良く、角度もある。
下半身がしっかりしたら、まだまだ伸びる投手。

◎3巡目指名選手
【氏名】   中田 亮二(なかた りょうじ)
【年齢】   21歳
【位置】   内野手(右・左)
【身長】   171センチ
【体重】   115キロ
【所属】   亜細亜大
【出身校】 明徳義塾高
広角に打てる打撃に加え、体格に
比べ脚力もあり、動き良い。

◎4巡目指名選手
【氏名】   松井 佑介(まつい ゆうすけ)
【年齢】   22歳
【位置】   外野手(右・右)
【身長】   183センチ
【体重】   83キロ
【所属】   東京農業大
【出身校】 大阪商業大学堺高
身体能力は高く、素材も申し分ない、
将来性を非常に感じる選手。

 この中でちょっと面白いと思うのは三巡目の中田亮二ですね。
 背はあまり高くないのに百キロ以上あるずんぐりした選手。しかし意外に脚力もあり、アベレージヒッターらしい。問題は守備位置が一塁だけらしいことです。三塁の勉強などもすれば、活躍できるかもしれません。

▼厚黒学

 これはシナの言葉で「ずるがしこくて腹黒い者でなければ王者、覇者にはなれない」という「厚黒の歴史法則」を意味するらしいです。
 こういう名前の本があちらでは何百万部も売れて大ヒットしたので、日本でも翻訳が出たが、まったく売れなかったらしい。
 日本と中国の意識の差は大きなものがあります。
 この違いに気づかないのが日本のマスコミと政治家ですね。
 黄文雄さんがこれについての本を出版し、それを宮崎正弘さんが書評している中に、上の事が書いてありました。
 ところで宮崎正弘さんの最近の本の表題にシナとあったので、産経新聞では広告を断ってきたそうですね。最近の産経は言葉狩りに加担しているなあ・・・。

▼温州ミカン

 鉢植えの温州ミカンも黄色くなってきました。
 収穫の秋が近づいております。

 ↓↓↓↓↓
 

オロモルフ号の航宙日誌3949『日露戦争と無線電信77』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年10月31日(土)11時17分11秒
  ▼日本海海戦における三笠の無線電信機の損傷17

『軍艦三笠戦時日誌』における無電受信以外の記述(其の十三)

**********

「戦闘詳細附録第一号」(五月二十七、八日の戦闘詳報の附録)

(この中に多くの調査表がある中の「水雷科破損箇處調査票」の中の後半に無電関連があります。なお前半は電気配線や艦内電話関連で、省略します)

前部無線電信室引入口絶縁用エボナイト板 二枚 敵弾前部潜水器室破壊セシ際破損

三十珊感応線用エボナイト覆 一枚 同右

耐風雨無線電信垂直線 一個 後「メントップマスト」切断墜落セシ際

無線電信垂直線碍子 十一本 同右

(メントップマストとは後部のマストのことで、後部が主マストです。これが途中で折れてしまったことは前に記したとおりです。ですからこれに伴ってそこに張られていたアンテナが後部無電機用も前部無電機用も墜落破損したことは当然ですが、この表に「一個」と記されているのは、たぶん、前部無電機用は落ちたのち回収して使用出来たからでしょう。また前部の無電機室もかなりの被害にあっていたことが分かります。三十珊感応線とは、大小二種あったインダクションコイル(特殊なトランス――変圧器)のうち小型の方です。ですから大型の五十珊の方が使えたことになります)

(同じ附録の中の「二十七日の死傷者原因詳表」の中につぎの無電機関連があります)

午後六時四十五分 敵十二尹弾薬剤室天蓋ヲ貫キ炸発 無線電信係 前部無線電信室ニアツテ電池器飛テ額ヲ打ツ 一曹 岡部吉之助 前額挫傷(軽傷)

(幸いなことに、無線電信係の兵士たちの死者や重傷者はいなかったようです。それにしても12インチの敵主砲が近くで炸裂した振動で電池が飛び跳ねて額にぶつかったのですから、相当な衝撃が無電機全体に加わったことがわかります。それでも壊れなかったのは、開発者たちが「丈夫で扱いやすい」をモットーにして苦心した成果だったといえます。外国製ではそのような配慮がなく、また日本でも大学教授が同じころに造っていた無電機もそのような配慮がなく、軍艦に積むととても壊れやすかったらしいです)

[続く]

**********
 

Re:4.14 「天平」と改元(天平元年(729)八月)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年10月31日(土)11時16分14秒
   なるほど、天平の甍の天平とは亀から来たのですね。
 しかし、それにしても、何だかわざとらしいですね。
 そんな文字を背中に持った亀がいて、道栄が教導して献上させたとは!
 

Re:永平寺その三

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年10月31日(土)11時14分52秒
    四天王はじつにきらびやかですね。
 おそらく日本の古来の寺院や仏像は、できたころは華麗なものだったのでしょうね。
 いつしか色が落ちてわびさびの雰囲気になりましたけど。
 東大寺の大仏なども出来たころはもの凄く派手なものだったそうですね。
 それにしても木造建築の質実剛健な様子がうかがえます。
(いま、ワードに保存する練習をしています。一太郎とは扱い方がずいぶん違うので面食らいます。)
 

奈良時代にこんなことが−一言主大神は語る

 投稿者:ハチマキおじさん  投稿日:2009年10月31日(土)09時44分38秒
  4.聖武天皇の御代(724〜749)

4.14 「天平」と改元(天平元年(729)八月)
 六月二十日のことじゃが、左京職が亀を献上した。長さ五寸三分、幅四寸五分で、その背中には、「天王貴平知百年(天皇は貴く、平和な治世は百年に及ぶであろう)」という文字があったのじゃ。これを大変目出度いこととして、八月五日に天皇は詔を出された。
「… 京職の大夫・従三位藤原朝臣麻呂らが文字を背にもつ亀を献上…、これは太上天皇(元正天皇)の厚く広い徳を蒙り、高く貴い行いによって現れた大瑞である。… この大瑞は天神・地祇がともに嘉として祝福されたがために顕された貴い端(しるし)である。そこで神亀六年を改めて、天平元年として、天下に大赦を行い主典(さかん)以上の百官の者に冠位一階を上げることをはじめとしてさまざまな恩恵を与えよう。…」
天平文化などとして耳になじんでおる天平時代が始まったわけじゃ。その「天平」は、亀の背中の文字がもとじゃった。そして、七四九年まで二十年間続くことになるのじゃ。

 ところで、実際に亀を捕らえたのは河内国古市郡の人で、無位の賀茂子虫(こむし)じゃった。子虫には従六位上が授けられ、アシギヌ二十匹、真綿四十屯、麻布八十反、貸し付け用の稲二百束が与えられた。また、唐から来日した僧の道栄には、子虫を教導して亀を献上させたとして、従五位下の位階になずらえて緋色の袈裟と物が施された。位階相当の禄は、令の規定により与えられたのじゃ。道栄については、養老四年の記事にもあるが、経典を読む際の節回しの統一にも関与していたようじゃ。

 天平時代は、天然痘の大流行や藤原広嗣の乱、繰り返される遷都など必ずしも平和を謳歌できたわけではないが、薬師寺の東塔、興福寺の五重塔が建てられ、東大寺の大仏、国分寺・国分尼寺の創建など多くの仏教文化が花開いた時代ではあった。「天平文化」のもつなにやら懐かしい響きは、これが我が国の文化の基礎となっていることを心に訴えておるのかもしれんの。

http://www12.ocn.ne.jp/~koushin/

 

永平寺その三

 投稿者:那須の権太  投稿日:2009年10月30日(金)19時42分4秒
編集済
  (寫眞上)
 永平寺「山門」入り口に安置されてゐる四天王です。門の東西に二體づつあります。これは東側のもので、向つて右が「東方持國天」、左が「北方多聞天」です。平成二〇年に修復されたさうです。

(寫眞中)
 こちらが西側で、右が「西方廣目天」、左が「南方増長天」となつてゐます。

(寫眞下)
 この寫眞は先に掲載したものの再掲ですが、山門と一體となつてゐる廻廊部分です。修行僧たちの修行の一環である、毎日の廻廊掃除によつてピカピカです。この掃除行は“動の坐禪”とも位置付けられてゐるさうです。

 永平寺の山號は「吉祥山(きちじょうざん)」ですが、その名の由來となつた「吉祥の額」が、この山門入り口正面に掲げられてゐます。 山門は支那唐時代樣式の樓閣門です。この寫眞右側に階段があるのが判ると思ひますが、反對側の階段との間の部分が入り口です。四天王像もこゝにあります。

 二階には登れませんでしたが「五百羅漢」が祀られてゐるさうで、中央には後圓融天皇から下賜された『日本曹洞第一道場』の敕額が掲げられてゐるさうです。

 この山門が永平寺に正式に入門を志願する修行僧の玄關となるさうで、一般の參拜者は外からこの門へは入れないといふことです。
 

オロモルフ号の航宙日誌3948『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年10月30日(金)11時43分41秒
  ▼今年のドラフト

 昨29日に行われたプロ野球ドラフトでドラゴンズが選択した選手はつぎの八名でした。

1位 岡田 俊哉
投 手 智弁和歌山高
2位 小川 龍也
投 手 千葉英和高
3位 中田 亮二
内野手 亜細亜大
4位 松井 佑介
外野手 東京農業大
5位 大島 洋平
外野手 日本生命
6位 諏訪部 貴大
投 手 Honda
7位 松井 雅人
捕 手 上武大
8位 吉田 利一
捕 手 奈良産業大

 さらに育成枠として二名選択しました。

育成枠1 矢地 健人
 投手 高岡法科大
育成枠2 赤田 龍一郎
 捕手 愛知大学

 合計十名で、予想より多かったです。
 個々の選手については明日ご報告します。

▼ドラフトについての私の夢。

 それは、素人の私がまったく予想もしなかったような選手が指名されて、その選手が入って大活躍することです。
 高校野球や大学野球で活躍した選手は素人でも知っていますから、あれが良いとかこれの方が良いとか、誰でも言えます。
 しかしスカウトが他球団の誰もがマークしなかったまったく無名の選手を探してきて、それが入って活躍すれば、「さすがはプロのスカウトだ」と評価されると思います。

▼千両

 ――が赤みを帯びてきました。
 今年もヒヨドリに食べられてしまうんでしょうか。
 ヒヨドリといえば、最近このあたりでもカラスが増えてきました。
 転居する前は鎌倉に住んでいましたが、そこではカラスに悩まされておりました。
 それがこちらに来たら、カラスがほとんど見られないので感心しました。
 しかし次第に増えてきて、時々危険を感じるほどになってきました。

 ↓↓↓↓↓
 

オロモルフ号の航宙日誌3947『小学生の日本神話284』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年10月30日(金)11時42分0秒
  ▼『古事記』の神話 上巻 大国主神6

<稲羽の白兎6>

[承前]

 この兎は大穴牟遅神に、つぎのように予言しました。
「あの大勢の兄弟の神々は、八上比売と結婚することは出来ないでしょう。袋を背負ってはいても、あなたがお嫁さんにするでしょう」

(これでこの白兎の項はおわり、大穴牟遅神が大変な苦難に遭遇する場面に移ります。なお八上比売は神に仕える巫女で、その地方の有力者たちの憧れの的だったのですね。この『古事記』の記事には、須佐之男命の子孫のことが詳しく記されています。大穴牟遅神=大国主神はそのうちの六代目、六世神です。大和朝廷の神話に出雲の神々の事蹟が詳しく記され、またその遠祖の須佐之男命が大和朝廷の祖である天照大神の弟神であるとされるのは、大和朝廷がいかに出雲の勢力に気をつかっていたかを示していると思います。出雲豪族と大和朝廷の確執はずっと後になっても『日本書紀』などに記されていますし、出雲大社の建立も出雲一族を宥めるためだったと言われます。『魏志倭人伝』においても、九州から邪馬台国に行く途中に「出雲」らしき「投馬」という大きな国があると記されていますが、邪馬台国=大和朝廷とすれば、『魏志倭人伝』と『古事記』の神話とはよく一致いたします。出雲→イズモ→ズモ→ズマ→投馬。投の音にはズがあるそうです)
 

Re:誰〜もイギリスの刑事司法制度のことは言わない(10)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年10月30日(金)11時40分18秒
   この制度も興味深いです。なるほど、イギリスでは有罪無罪の判断だけなのですね。
 イギリスの制度をインターネットで調べようとしても、私のような人間に分かりやすく書かれている解説は見つかりません。
 この連載は貴重です。
 

Re:永平寺その二

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年10月30日(金)11時39分38秒
   綺麗なお写真をありがとうございます。
 クリックするととても大きくなり見易くなります。みなさんもクリックしてご覧ください。
 天井絵のお部屋はずいぶん近くまで行かれるのですね。いたずらされないか、ちょっと心配になりますけど。
 そういえば曹洞宗のご本尊は釈迦牟尼ですね。うちは浄土真宗と曹洞宗が同居しているものですから、お釈迦さまの仏像と阿弥陀さまの仏像があります。両方とも小さなものですが。たしか両手の組み方で区別するのですね。
 

誰〜もイギリスの刑事司法制度のことは言わない(10)

 投稿者:解法者  投稿日:2009年10月30日(金)10時48分23秒
   本題とは直接関係がないが、日本で行われている「裁判員制度」の
こともあるので、イギリスの刑事裁判制度について簡単に触れておき
たい。
 イギリスでは「陪審」が行われているが、アメリカとは異なり
全ての刑事事件に「陪審」が実施されているわけではない。「重罪」
に限られる。「重罪」とは1級犯罪(殺人罪など)と2級犯罪
(致死罪、強姦罪など)、その他1年を超える犯罪で否認事件
および被告人が陪審を希望した場合である。2005年には
80,021件に上っている(日本では3,633件−犯罪率、
起訴率、対象範囲もあるから単純には比較できない)「陪審裁判」
は「刑事法院」(日本の地方裁判所に当たる)で行われ、裁判官1名、
陪審員12人で構成される。陪審員は有罪・無罪を判断するだけで
量刑の権限はない。この点はアメリカと同じである。陪審員は
選挙人名簿(18歳〜69歳)から無作為に選出される。
「呼出状」にもかかわらず出頭しないときは1000ポンド
(約16万円)の罰金が課せられる(日本では10万円の過料)。
辞退はなかなか認められない。
 評議は原則として全員一致だが、それが不可能なときは11対1、
10対2でも可能とされている。
 なお、刑務所や警察署の留置施設で被疑者などが死亡した場合、
警察官の行為により被疑者など死亡した場合には「検死陪審」と
いうものが開かれるという特殊な制度がある。これは捜査機関に
よる事件をウヤムヤにしないためにも日本でも採り入れた方が
よいと考える。
 

永平寺その二

 投稿者:那須の権太  投稿日:2009年10月29日(木)19時27分22秒
  (寫眞上)
 「傘松(さんしょう)閣」二階大廣間床の間。
 この建物は參拜者の控室や宿泊部屋がある建物です。平成六年に改築されたものださうです。

(寫眞中)
 傘松閣の天井繪。昭和五年建築當時の物をその儘修復した物ださうで、この部屋の別名を「繪天井大廣間」と謂ふさうです。この繪は昭和五年當時の著名な畫家一四四名による二三〇枚の花鳥繪です。
 私の地元出身の佛畫家「荒井寛方(かんぽう)」の作品もありました。

(寫眞下)
 これが永平寺七堂伽藍の中心、「佛殿(ぶつでん)」。本尊、釋迦牟尼佛が祀られてゐます。
 

オロモルフ号の航宙日誌3946『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年10月29日(木)12時32分7秒
  ▼ドラフト会議

 いよいよ本日はドラフトです。
 どういう事になるのでしょうか。
 私としては、有名選手の取り合いではなく、無名の中に隠れている宝石を見つけてほしいです。甲子園や大学野球で活躍した有名選手を候補にあげるのは素人にだってできます。だからスカウトの腕の見せ所は、無名選手の中から未来の有名選手を発見することではないでしょうか。

▼鬼ユズの続き

 これはもっとも黄色くなった実です。葉に隠れてこれまでは見えなかったものです。

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オロモルフ号の航宙日誌3945『日露戦争と無線電信76』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年10月29日(木)12時30分25秒
  ▼日本海海戦における三笠の無線電信機の損傷16

『軍艦三笠戦時日誌』における無電受信以外の記述(其の十二)

**********

[承前]

(十二)無線電信ノ作動

三、無線電信ニ付キ将来改ラルヲ要スヘキ点左ノ如シ(の続き)

 (三)単檣艦ニアリテモ戦闘用ノ目的ヲ以テ引込口トシテ「マスト」内腔ヲ使用スルノ道ヲ講センコトヲ希望ス 抑モ無線電信効力上ヨリ云ヘハ二檣ノモノヨリ単檣ノモノヲ有利ナリトシ又防禦ノ点ヨリ云フモ第一項ニ述ヘシカ如ク勤メテ上甲板以上ノ副造物ヲ避ケサル可カラサルヲ以テ今後ノ軍艦艦形トシテ寧ロ単檣艦ヲ是トシ信号ノ副装置タル一檣ヲ廃スル代リニ其重量ヲ以テ一檣ヲ強固ニ構造センコト小官ノ希望ニ堪ヘサル所ナリ

 (四)艦船ニ於ケル垂直線装備ノ進歩ト共ニ送信力ヲ弱ムヘキ「ステイ」「リギン」絶縁ヲ完全ニスルハ勿論其導キ方ニ於テモ垂直線ノ好状態ヲ保持セシムル為メ請求ハ勤メテ之ヲイ満足セシメラレンコトヲ希望ス

(この少し前の箇所で伊地知彦次郎艦長は、下図のようなアンテナの張り方と無電室の位置やそこまでの引き込み方法を提案しています。この図は活字化された本では略されており、戦時日誌の原典を見ないと見つかりません。これは当時としては経験を生かしてよく考えた方法だと思いますが、その後発展したアンテナの知識から言いますと、無理があります。線状アンテナというのは、マルコーニが始めた方法ですが、最初のうちはただ単に上空高く伸ばすだけでしたが、後には横に張ってその端や中央から下に降ろす方法がよく用いられるようになりました。そしてその性能がなかなか良い事が見出されました。これは日本海軍では横臥式垂直線と呼んでいましたが、おそらくは艦船の上という制限された形状に合わせて工夫されたものでしょう。この横臥式の特性が良好である理由として当時の人たちは――高度な専門家も含めて――横に張った線からたくさんの電波が出るからだと考えたようです。しかし大正時代以降に研究が進んで、昭和初期には明かになったのですが、線状アンテナの電波送受は、主に地表に垂直な部分でなされます。横臥した部分からの電波は地表や海面からの反射波と相殺してしまって、効率が悪いのです。直接波と反射波とでは極性が逆になるからです。なぜ逆かといいますと、それは地面や海面が導体で電波はそれに水平だからです。一方垂直部分からの放射は反射波と極性が同じで相加しますので、そういう事はありません。ではなぜ艦船での横臥法が良好だったかといいますと、垂直部分の先に横臥部分がある事によって垂直部分の電流が増えたからです。つまり下に降ろすための垂直部分からの電波が増えたのです。しかし当時の人たちは、木村駿吉のような開発者でも、その部分を単なる引き込み線としか考えていなかったようです。ですから下図のように、電流の多い大切な垂直部をマストの円筒の中に入れてしまう案を出しているのです。さて、この(三)と(四)の提案は、軍艦上でのマストがらみのワイヤーによる電波妨害にいかに悩んでいたかを物語っています。いまの知識であれこれ考えてみましても、前回の図の後部無電機のアンテナが最善でしょう。大砲の邪魔という点を除きますと。(三)の単檣が良い――は、二檣に比べてマスト間のワイヤーが無いため張りやすいと考えたためでしょう。(四)の「ステイ」や「リギン」の絶縁というのは、これらを絶縁すればアンテナへの電気的妨害が減るからで、木村駿吉もそれに気づいて上層部に提言したそうですが、そういったワイヤー類を碍子を使って絶縁すると、碍子の強度がまったく保たず、壊れてしまうので無理だと判断されたようです)

▼伊地知彦次郎艦長のアンテナ張り方と無電室位置の案

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Re:永平寺

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年10月29日(木)12時19分2秒
   那須の権太さん、ありがとうございます。
 じつに興味深いです。
 これから時間を見ては、那須の権太さんの写真入りの投稿をワードに保存いたします。保存したあとの処理の仕方はこれから勉強します。
 一太郎でも同様に出来るといいんですけど。
 

永平寺

 投稿者:那須の権太  投稿日:2009年10月28日(水)19時08分12秒
  オロモルフ樣
 改めまして今囘の旅の寫眞を逐時掲載してまゐります。(その間古生物はお休みです。)

 福井縣吉田郡永平寺町にある曹洞宗大本山永平寺、約七六〇年前の寛元二年、謂はずとしれた道元禪師によつて開かれた曹洞宗の根本道場ですね。
 年末のテレビ「行く年來る年」などで、初詣に鐘を撞いてゐる樣子などが紹介されたりします。冬は雪深いところのやうですが、先週の木曜日は紅葉にもまだ少し早いかな?といふ感じでした。

 寫眞の上から、正門參道、通用門、通用門の近影。
 

オロモルフ号の航宙日誌3944『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年10月28日(水)11時25分34秒
  ▼だんだんデタラメに・・・

 ・・・なってきましたね。
 現内閣のことです。
 前原のいってること、辻褄あいません。
 近く岡田が渡米して、意味不明なコトを言って国益損ねて帰国するのでは?
 防衛大臣の言うことも変です。
 法務大臣は何か画策しているようだし・・・。
 鳩山夫人ははしゃぎまわっていて、マスコミに出まくり。マスコミの扱いは麻生とは大違いで、極端なまでの不公平です。

▼鬼ユズ(続き)

 これまで何回かお見せしたユズです。写真の撮りやすい場所にあるので撮っていただけです。

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オロモルフ号の航宙日誌3943『小学生の日本神話283』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年10月28日(水)11時19分8秒
  ▼『古事記』の神話 上巻 大国主神5

<稲羽の白兎5>

[承前]

 兎の話をお聞きになった大穴牟遅神は、その兎につぎのようにお教えになりました。
「急いでこの河口に行き、真水で身体を洗いなさい。それから附近の蒲の花(*1)を取って敷き詰めて、その上に横たわって転がりなさい。そうすればお前の身体はもとのように治るだろう」
 兎はこの教えにしたがって、そのとおりにしたところ、傷は治りました。
 これが稲羽の白兎(*2)です。いまでは兎神(*3)といわれます。

*1:蒲には穂ができ花が咲きますが、その花粉は古来薬用だったそうです。

*2:原文では素兎と書かれています。兎の毛皮を衣服に見立てて、素の字を使ったとされます。素は繊維の白さを表現するそうです。白兎と書くと月の異名になるそうです。

*3:兎神とは、つぎに出てきます巫女八上比売のお使い(神使い)だったそうです。

[続く]
 

Re:4.13 光明皇后誕生(天平元年(729)八月)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年10月28日(水)11時17分24秒
   たしかに、相当な無理がありますね。
 いまの感覚では、なぜ律令の改正をしなかったのかと思いますけど、そういうものでは無かったのでしょう。
 もっとも現代でも憲法改正は永遠に出来そうになく、憲法の解釈を無理矢理変化させて誤魔化しておりますけど!
 

Re:あれ?コピーで出来る

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年10月28日(水)11時16分24秒
   那須の権太さん、いろいろとありがとうございます。
 で、あわててワードを探して、とりあえずやってみたところ、ふつうの文書の頁にコピー出来ました!
 これにはビックリしました。
 もっともワードの事は知りませんので、これを編集してインターネットの保存頁にどのように入れるのかは、別の話で、苦労するとは思いますが、とにかく出来ますね!
 これまでの保存頁への写真入りの文書保存は、写真を一つ一つ写真のファイルから探してきて入れていたのですが、それが一度に出来てしまうとなると朗報です。
 ワードの方が進んでいますね。
 

奈良時代にこんなことが−一言主大神は語る

 投稿者:ハチマキおじさん  投稿日:2009年10月27日(火)17時42分23秒
  4.聖武天皇の御代(724〜749)

4.13 光明皇后誕生(天平元年(729)八月)
 八月十日、天皇は詔して正三位の藤原夫人(ぶにん)(光明子)を皇后にされたのじゃ。このことは、同月二十四日に内裏に五位以上の官人と諸司の長官を集めて、知太政官事で一品の舎人親王が宣命を宣布したのじゃ。その中から注目すべき内容を拾い出してみよう。
「朕が皇位について六年、この間皇位を継承すべき皇太子がいた。これにより、その母である藤原夫人を皇后に決めた。国にとって皇后の位は不可欠のものなので、六年間皇后として相応しいか選び試みてきた結果である。元明天皇が、初めてこの皇后を朕に賜った時、「この娘の父・藤原不比等は心から朝廷に尽くした者であるから、この娘に過ちや罪がなければ、捨ててはならぬ」と仰せになった。そのお言葉にしたがって、ともかくも六年間試み使って、皇后の位を授けるものである。それも、臣下の女を皇后に立てるのは自分の時のみではない。仁徳天皇は、葛城曾豆比古(そつひこ)の娘の伊波乃比売(いわのひめ)命を皇后に迎え天下の政を行われた。光明子を皇后に立てることは、今さら珍しいことではない」
この詔に続いて、「今、宣布した詔は常のことではない」として、特に物を賜うとの勅が出され、地位に応じてアシギヌが下賜されたのじゃ。

 いかがかな、いかにも言い訳がましい詔じゃろう。律令においては、皇后になれるのは内親王を原則としておった。このため弁明の羅列になったわけじゃ。まず、夭折した皇太子を産んだ(本章10項)から皇后にすると言い、六年間試した結果だと言っておる。さらに元明天皇の言葉を引き、忠臣・不比等の娘だからと言い、最後には仁徳天皇を前例に出しておるのじゃ。どれ一つとっても、令の原則に反し臣下の娘を皇后にする正当な理由にはなり得ないのじゃ。もっともらしい仁徳天皇の前例も、その活躍時期は五世紀中頃じゃから、律令が制定される二百年も前の話じゃ。令の原則を破る前例にはなり得ないのじゃよ。そのため、臣下の不満を抑えようとアシギヌが下賜されたというわけじゃ。

 長屋王の変(本章12項)から半年後、あえて火中の栗を拾おうとする者などおらんかった。ことは藤原氏の思惑通りに運び、藤原氏の権勢は温存できたというわけじゃ。

http://www12.ocn.ne.jp/~koushin/

 

あれ?コピーで出来る

 投稿者:那須の権太  投稿日:2009年10月27日(火)15時04分36秒
  オロモロフ樣
試しにと思つてやつてみましたら、範囲指定して普通にコピーしても文書も寫眞もそつくり保存できますね。ワードですが・・。
 

文書と寫眞の保存

 投稿者:那須の権太  投稿日:2009年10月27日(火)14時37分42秒
  オロモルフ樣
おそらくさういふことだらうとは思つてました。

寫眞の揭載されてゐるページをそつくり保存するなら、レスの題名部分をクリックし目的の記事だけを表示させた後、ポインタを何もない部分に置き、右クリック。「名前を付けてページを保存」で出來ます。

さうではなく、寫眞入りの文書として保存する場合でも、少し面倒になりますが出來ると思ひます。たゞ私は一太はほとんど使はないので、ワードでのやり方しか判りません。

まづ寫眞だけをマイピクチャに保存しておき、文字部分をワードにコピーした後、畫像を挿入したい場所に点滅カーソルを置いておき、「挿入」タブを開くと「図」といふアイコンが表示されますのでそれをクリックすると、マイピクチャのフォルダが開きます。任意の畫像をクリックして「挿入」ボタンをクリック。
するとワードの文書中のカーソルが置いてある箇所に畫像が挿入されます。

ワードで出來るのですから一太でも可能だと思ふのですが・・・。一太郎はよくわからなくてすみません。
 

オロモルフ号の航宙日誌3942『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年10月27日(火)12時03分33秒
  ▼前原大臣

 って、本当に軽いノリの人ですね。
 前にインターネット問題があったとき、その軽さにビックリしましたけど、本当に軽い。ダム問題でも話がドンドン変化します。
 こんなに軽い人が大臣やってていいんだろうかと思いますけど、自民党にはもっと軽い大臣もいましたし、日本人全体がとても軽くなっているんですね。
 そのかわりしがらみを考えずに発言するせいか、羽田問題など、ふつうは用心していわないような事を言ってくれます。

▼柑橘類

 今朝起きてみると、昨日の風で、鉢が二つ倒れていました。でも、実は落ちませんでした。
 鬼ユズの鉢は針金で縛ってあるので大丈夫でした。
 その鬼ユズですが、だいぶ黄色くなってきました。

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オロモルフ号の航宙日誌3941『日露戦争と無線電信75』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年10月27日(火)11時45分35秒
  ▼日本海海戦における三笠の無線電信機の損傷15

『軍艦三笠戦時日誌』における無電受信以外の記述(其の十一)

**********

[承前]

(十二)無線電信ノ作動

三、無線電信ニ付キ将来改ラルヲ要スヘキ点左ノ如シ(の続き)

 (二)垂直線導キ方ハ従来経験ニ於テ確認セラレシカ如ク出来得ル限リ「マスト」ヨ
   リ遠サクルヲ可トス 然ルニ戦闘準備ヲ整フルヤ前後砲塔発射ヲ妨クル為メ勢
   ヒ平時用フル架装法ヲ変セサル可カラス 然モ両檣間ニ介在セル前部垂直線ハ
   恰モ妨波装置内ニアルカ如ク為メニ著シク通信ノ効力ヲ減スルヲ以テ勢ヒ後檣
   ニ其引付位置ヲ求メサル可カラス 小官ハ嚮ニ有効距離ノ増加スルト共ニ敵弾
   ニ対シ垂直線ノ安全ヲ期待スル為メ水平ニ架装スルノ利益ヲ認メタシリカ今回
   図ラスモ後檣ノ倒レシタメ却テ独立セシムレハ損害ナカルヘカリシ前檣垂直線
   モ之カ為メ失ヒ新ニ導キ換ユルノ不便ヲ見タリ 然モ本艦ノ如キ両檣ノ間隔短
   ク其間ニ介在セル垂直線ノ到底後檣ヲ利用スルニアラスハ其効力ヲ発揮シ能ハ
   サルヲ思ハハ此架装法ハ已ヲ得サル所ナリ

(ここに書かれていることは、じつにもっともなことでして、軍艦という制限の強い場所でいかにアンテナの効果を劣化させない張り方をするかは、木村駿吉も頭を痛めたところのようです。この文章は図を見ないと分かりにくいでしょうから、下の図をもとに説明いたします。日本海海戦当時の三笠のアンテナは、だいたいこの図の太線にようになっていたようです。後檣(後部のマスト)の上から船尾に向けて降ろし、その下部からマスト下の無電室に引き込んでいるのが後部無電用の垂直線(アンテナ)です。これは木村駿吉が頭を痛めた結果として推奨した方式で、現在の知識で考えても最善の方法だったと思います。ですから前部無電機用のアンテナも前部マストを利用して似たように張れば良いのですが、戦闘は始まると主砲の妨害になってしまって、使えません。そのままにしておけばアンテナは千切れてしまいます。通常の軍艦では戦闘が始まる前に無電機は海面より下の部屋に移しアンテナは外していたのですが、三笠のような旗艦では戦闘中にも遠方の味方から重大無電が入るかも知れませんので、生かしておく必要があります。そこで前部主砲の前にはアンテナが来ないように張る必要が出てきます。その方法として考えられるのは前部マストの頂上から煙突のある附近に向けて降ろして、後部アンテナと相似形になすことですが、これは煙突が電波を邪魔しますしその附近にはワイヤーが沢山張られているので、電波は妨害されてしまいます。そこで前と後のマストの間に、図のように張り、その前の端から下に降ろしてマスト下部の無電室に引き込む方法が考えられました。これは良い方法のように思われますが、二つの欠点があります。一つは前後のマストのどちらかが倒壊すると、ダメになってしまうという事です。とくに後のマストがやられますと、後は勿論前の無電も使えなくなってしまうのです。日本海海戦時に三笠が受けた無電の被害は、まさにそれだったのです。伊地知彦次郎艦長の文章は、その事を「やむえをえなかった」と語っているのです。前後マスト間に張る方法のもう一つの欠陥は、マストの頂上から無電室までの引き込み線が、マスト自体やマスト附近に張られているワイヤー類によって妨害を受けることですが、伊地知彦次郎はそれには気づいていなかったようです。伊地艦長だけでなく、開発の中心だった木村駿吉も電波の研究を始めていた大学教授たちも、気づいてはいなかったらしいのです。これについては次回にご説明します)

[続く]

**********

▼日本海海戦当時の三笠のアンテナ(概略図)

 ↓↓↓↓↓
 

Re:寫眞の保存

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年10月27日(火)11時40分15秒
   beeさん、那須の権太さん、ありがとうございます。
 じつは、右クリックしてマイピクチャに保存する方法は、数回はやったことあるのですが、文章と数葉の写真を一緒に保存するのが困難なものですから、まとめて一太郎に入れられないかと思ったのです。これは何度も試みているのですが、成功していないのです。
 

Re:落合監督

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年10月27日(火)11時39分18秒
   ご賛同ありがとうございます。
 昨年くらいから選手起用がどうも変だと感じています。
 だいぶぶんのドラファンがそれを感じているようですね。
 同監督が前に球場でお守りの入った財布が盗まれるという事件がありましたが、日蓮に関係のある某新宗教のお守りだとインターネットに書いてありました。
 

寫眞の保存

 投稿者:那須の権太  投稿日:2009年10月26日(月)22時10分43秒
  オロモルフ樣

》私はインターネットでの写真の扱いの知識が無く、那須の権太さんの書き込みを保存しようとするとき、お写真の保存が出来なくて悩んでおります《

えと、それはネット上にある色々な畫像を自分のパソコンに保存する方法の事でせうか。
であるならば、それはとても簡單です。

ただ私は「XP」しか使つたことがありませんので、ビスタのことは判りません。でもたぶん似たやうなことだと思ひます。從ひましてXPでの手順をご説明いたします。

保存したい畫像にカーソルを合せ、『右クリック』。メニューが開きます。
メニューの中の『名前をつけて畫像を保存』を普通に左クリックして下さい。
さうするとたぶん「マイピクチャ」のファイルが開きます。
そこでお好きな名前をつけて『保存』です。これで畫像がご自分のPCに保存されるはずです。


あ、bee樣が解説されてましたね。失禮致しました。
 

この掲示板に投稿された写真の保存

 投稿者:bee  投稿日:2009年10月26日(月)21時21分55秒
  オロモルフ博士

投稿された写真の保存は、写真をクリックすると別窓が開きますから、そこの写真を右クリックして「名前を付けて画像を保存」すれば博士のPCに取り込めます。
 

以上は、新着順101番目から200番目までの記事です。 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  |  《前のページ |  次のページ》 
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