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オロモルフ号の航宙日誌3953『日露戦争と無線電信80』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2009年11月 7日(土)12時56分57秒
  通報 編集済
  ▼日本海海戦における三笠の無線電信機の損傷19

 山本英輔が記録した日本海海戦の無線電信(其の一)

◎山本英輔の略歴

 明治9年5月15日生。昭和37年7月27日没。
 海兵24,海大5。
 日露戦争時第二艦隊参謀/大正8年軍令部参謀/大正10年艦政本部第二部長/大正12年海軍大学校長/大正13年第五艦隊司令官/大正14年軍令部/大正15年練習艦隊司令官/昭和2年軍令部・初代航空本部長/昭和3年横須賀鎮守府長官/昭和4年第一艦隊兼聯合艦隊司令長官/昭和6年軍事参議官・海軍大将/昭和9年議定官/昭和11年予備役
 山本権兵衞海軍大臣・総理大臣の甥だが閨閥とは関係なくきわめて有能な軍人として知られました。とくに注目すべきは技術面における先見性で、無線電信技術の開発・海軍航空の生みの親・通信関係の教育制度の確立など、多くの業績をあげました。日露戦争のときも無電技術で多くの実験を独自になして電離層発見の一歩手前まで行き、海軍では夜間になると電波が遠くへ届く現象を「山本現象」と呼びました。
 二.二六事件では微妙な立場でそれが退役を早めたとも言われます。一時は総理大臣候補とも言われたそうです。

◎無線電信の訓練

 新しい技術に興味を持つ人であり、第二回の士官のための無電訓練を水雷術練習所で受け、明治35年1月22日に修了しました。第一回は東京の海軍大学校構内ですから、横須賀でなされた訓練の最初を受講したわけです。

◎遣英使節の随艦に乗る

 この年、イギリスの王位を前年継いだエドワード七世の戴冠式が挙行されることになり、当時日英同盟を締結したばかりの日本は最大限の敬意を表するため戴冠式参列の日本代表として小松宮彰仁親王殿下をお願いし、お送りするために遣英艦隊が組織されました。それは同時にこの年の1月30日に調印発効した日英同盟の内容を詰める会議をロンドンで開催するためでもありました。
(このため陸軍では随員として福島安正参謀本部第二部長を同乗させて派遣しました。会議は伊集院五郎と福島安正が出席したわけです。このような努力の結果として、日露戦争で効果の上がった日英間の協定が出来あがったのですね。むろん山本権兵衞が強力に牽引したようです)
 遣英艦隊の指揮は当時の常備艦隊司令官伊集院五郎がとり、親王殿下は司令官とともに一等巡洋艦「淺間」にお乗りになりましたが、これには二等巡洋艦「高砂」が随いました。
(「淺間」は明治天皇の御召艦にも何回かなったことがあります)
 無線電信を習得したばかりの山本英輔(開戦時海軍大尉)は「高砂」に分隊長として乗り、出来たばかりの三四式無線電信機を設置して取り仕切りました。
(取り仕切ったといっても無電機を扱えるのは使節団で山本英輔しかいなかったと思います)

◎マルタ島での貴重な体験

 遣英艦隊は明治35年4月7日に横須賀軍港を出港。航路の途中で山本英輔は盛んに無電機を操作したようですが、物足りないものを感じたようです。とくにイギリスの無電機と比較する場面が有ったらしく、日本の無電機は劣勢だと悟りました。
 5月の末になって「淺間」と「高砂」は地中海に入り、5月27日にマルタ島に到着し31日に出港しましたが、マルタ島は英国海軍の基地であり、そこに英国軍艦が停泊しており、山本英輔は日英同盟の効果で、最大限見学させてもらえました。
 その結果として、山本は、日本の三四式が英国式にかなり劣っていることを痛感しました。また受信用のコヒーラを借りて実験してその優秀性を認識したりもしたようです。
 戴冠式参列(たぶん夏)を終えた小松宮殿下を乗せた遣英艦隊は8月末にイギリスを発ち、11月28日に横須賀に無事帰港しました。
 貴重な体験を得た山本英輔は、三四式無電機と英国無電機の性能を比較して、三四式は早急に改善を図る必要があるとの長大な意見書を書いて海軍省に提出しました。

[続く]

▼山本英輔肖像
(後の時代の写真です)

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