|
|
(ちょっと横道に入りますが、日露戦争における無電の最初を調べてみます)
▼日露戦争最初の無電
日露戦争における最初の海底ケーブル使用としては、前に『国際通信の日本史』に書きましたが、明治三十七年一月十五日の夕刻、沖縄丸の決死の敷設で、佐世保から八口浦までの海底ケーブルが完成しました。
この完成を知らせる電報を八口浦から佐世保の聯合艦隊まで打電したはずで、これがおそらくは日露戦争における最初の海底ケーブルによる軍事電報だったと思います。
むろん練習や事務連絡の類は別です。
では、無電の最初は何だったのでしょうか。
明治三十七年の一月ごろに、それまでの三四式無電機を三六式に改修したり新設したりする仕事が急ピッチで進められ、一月の終わりには主要軍艦への三六式装備は完成していたようです。
(ただしこの時期にはまだ生産が間に合わないため三四式のままの軍艦もありましたし、三四式の一部を三六式部品に取り替えて性能向上を図った準三六式もありました)
無電機据付時の検査や練習のための無電送受は別にして、軍事連絡としての無電の最初の記録は、少なくとも旗艦三笠としては、二月八日のようです。
「軍艦三笠戦時日誌」の明治三十七年二月八日の條に、次のようにあります。
**********
此日午後四時左ノ無線電信命令アリタリ
戦隊ハ今夜ノ予定航路ヲ変シ、午後六時迄前進シテ六時ヨリ速力ヲ十海里トナシ、
左十六点ニ正面ヲ変シ午後八時右八点ニ正面ヲ変シ、午後十時北八十五度西ニ変針、
午前五時北十五度西ニ変針、老鉄山ニ向フ 針路ノ変換ニハ信号ヲ用イス
其時刻ニ至レハ先頭隊ヨリ逐次ニ変針スルモノトス
序列ハ第三戦隊先頭トシ、第一、第二戦隊之ニ次ク 各隊ノ間隔ハ三千米突トス
(八点は90度、十六点は180度。老鉄山は旅順のある遼東半島先端らしいです。聯合艦隊司令長官は三笠に乗っていますから、その命令は三笠の無電機から出ているのですが、三笠そのものもやはり聯合艦隊司令長官からの命令を受けて運航しているわけです。つまり東郷司令長官と長官が乗っている三笠とは別の次元なのですね。聯合艦隊は六日に佐世保を出撃、この無電のあった八日から翌日九日にかけての旅順攻撃が日露海戦の最初です)
**********
▼参考図
上の記録がたぶん、戦闘開始されて最初の軍事無電だと思います。
この無電で指示された航路の図は写真(上)の通りです。
また、戦闘開始直前に敵味方が遭遇した時の識別のための暗号が決められました。それが写真(下)です。
右から、旗旒信号用、発光信号用、手燈用、言語用です。
こういう種類の符丁、暗号もほとんどすべて秋山眞之が決めたらしいですね。若い参謀が手伝いましたが。とにかく秋山眞之の当時の仕事量は凄まじいものがあったらしく、戦後疲れが出たのは当然です。
|
|