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▼日本海海戦における三笠の無線電信機の損傷18
『軍艦三笠戦時日誌』における無電受信以外の記述(其の十四)
日本海海戦の戦後処理が一段落した三笠は、戦場から鎮海湾→佐世保→鎮海湾と移動して、六月七日の夜以後しばらくは鎮海湾に待機しました。
六月十日も鎮海湾にいましたが、その日の戦時日誌につぎのようにあります。
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午後五時三十分 総員前甲板整列 日本海海戦ニ於テ殊功アリシ無線電信機三等兵曹窪田新助ニ特別善行章ヲ授与シ終テ艦長訓示アリ 其要次ノ如シ
艦長訓示(総員於前甲板)
一、無線電信係リ窪田兵曹ニ去ル五月二十七日、二十八日、日本海海戦ノ際無線電信
取扱ヒノ功績ニ対スル特別善行章授与申渡シノ後
窪田兵曹カ本日名誉ノ特別善行章ヲ得タル 無線電信ハ此度ノ大捷二関シテ尤モ
顕著ナル機関ナリキ 敵艦隊ヲ発見シタル後能ク是レト接触ヲ保チ我カ主戦艦隊
ヲ導キテ遂ニ会戦全滅ノ機会ヲ得セシメタルハ一ニ無線電信ノ賜ナリ 抑モ無線
電信カ我カ各艦装備セラレシハ昨年出征ノ少シク前ニシテ其ノ果シテ戦時ニ於テ
モ有効ナリヤノ疑問ハ当時未タ決セラレサルニ日露干戈ヲ交ユルニ至リシカ出征
以来種々ノ場合ニ使用シテ得タル効果尠カラス 殊ニ今回大捷ノ動機ヲ与エタル
カ如キ是ニ至リテ吾人ハ等シク其ノ創案者タル「マルコニー」其人ニ対シ感謝シ
テ措カサル所ナリ
但シ無線電信機ニ就テハ尚ホ多ク進歩スヘキ余地ヲ有ス 仮ヘハ是ニ依リテ発信
艦所在ノ方向ヲ覚知スルカ如キ、或ハ有効距離ヲシテ更ニ遠大ナラシムルカ如キ、
又空中電気ヲ識別スルカ如ク其他欲スル所枚挙ニ暇アラサルヲ以テ将来益々研究
シテ該機ノ至大ナル発展ヲ見ム事ヲ望ム
惟ニ無線電信ノミニ非ス 砲術、水雷術、機関ニ於テモ亦然リ 既ニ其筋ニテモ
敵カ一縷ノ望ヲ嘱セシ「バルチック」艦隊全滅ノ結果、戦局ノ終末モ甚タ遠カラ
サルヘキヲ察シ新タニ練習生ノ募集サレタルヲ見ル 蓋シ新知識ノ普及ヲ得ンカ
為メナリ 願クハ夫レ夫レ所志ヲ定メテ奮励シ可及的多数ノ志願者在ランコト望
ム(二、以下略)
(国としての褒賞はあれこれ有り、このあと大量の叙勲褒賞がなされたのですが、この無線電信係窪田兵曹への特別善行章は珍しいと思います。おそらくこれは艦長としての独自の褒賞でしょう。確言はできませんが、無電機の前に座って受信電文を上官に渡し、また上官からの命令で電文を送信する役目は大砲を撃ったりする役目に比べて目立ちませんから、軍としての褒賞にはなりにくく、そこできめ細かく配慮することで知られた伊地知彦次郎艦長は、独自の賞を与えたのではないか、と思います)
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ここで参考までに、他の資料から分かります三笠の無電関係の担当者を記しておきます。
開戦時から黄海海戦のころまでは、士官としては、
白根熊三大尉(明治34年4月25日に無電訓練終了)
市川節太郎中尉(明治36年8月1日に無電訓練終了)
市川中尉が当時の無線電信主任で、黄海海戦で重傷を負っています。
士官のもとで操作する担当者は不明です。
日本海海戦時においては、士官としては、
清河純一大尉(聯合艦隊参謀の一人で無電や信号担当/当時軽傷)
森初次大尉(明治34年4月25日に無電訓練終了)
この二人以外は不明ですが、訓練修了士官があと一人いたかもしれません。重要な軍艦ですから、訓練終了士官が一名のみとは考えにくいです。黄海海戦で減ってしまったら別ですけど。
士官以外としては、
窪田新助三等兵曹(明治35年11月20日に無電訓練終了。87点という最終試験成績が記録にあります)
岡部吉之助一等兵曹(無電訓練有無は不明/無電室で軽傷)
無電の訓練は水雷術練習所で全力を振り絞ってはいたものの、とうてい十分な人数の訓練は出来ず、したがって無電係といっても軍艦上で経験者から初めて教わる士卒が多かったのではないかと思います。とくに現場に詰めて無電機を扱うオペレータはそのようだったのではないか、と思います。
(以上で三笠戦時日誌に見られる無電関連の記事引用を終わります。つぎは戦時日誌以外の一次資料から無電関連を抜萃いたします)
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