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奈良時代にこんなことが−一言主大神は語る

 投稿者:ハチマキおじさん  投稿日:2009年10月27日(火)17時42分23秒
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  4.聖武天皇の御代(724〜749)

4.13 光明皇后誕生(天平元年(729)八月)
 八月十日、天皇は詔して正三位の藤原夫人(ぶにん)(光明子)を皇后にされたのじゃ。このことは、同月二十四日に内裏に五位以上の官人と諸司の長官を集めて、知太政官事で一品の舎人親王が宣命を宣布したのじゃ。その中から注目すべき内容を拾い出してみよう。
「朕が皇位について六年、この間皇位を継承すべき皇太子がいた。これにより、その母である藤原夫人を皇后に決めた。国にとって皇后の位は不可欠のものなので、六年間皇后として相応しいか選び試みてきた結果である。元明天皇が、初めてこの皇后を朕に賜った時、「この娘の父・藤原不比等は心から朝廷に尽くした者であるから、この娘に過ちや罪がなければ、捨ててはならぬ」と仰せになった。そのお言葉にしたがって、ともかくも六年間試み使って、皇后の位を授けるものである。それも、臣下の女を皇后に立てるのは自分の時のみではない。仁徳天皇は、葛城曾豆比古(そつひこ)の娘の伊波乃比売(いわのひめ)命を皇后に迎え天下の政を行われた。光明子を皇后に立てることは、今さら珍しいことではない」
この詔に続いて、「今、宣布した詔は常のことではない」として、特に物を賜うとの勅が出され、地位に応じてアシギヌが下賜されたのじゃ。

 いかがかな、いかにも言い訳がましい詔じゃろう。律令においては、皇后になれるのは内親王を原則としておった。このため弁明の羅列になったわけじゃ。まず、夭折した皇太子を産んだ(本章10項)から皇后にすると言い、六年間試した結果だと言っておる。さらに元明天皇の言葉を引き、忠臣・不比等の娘だからと言い、最後には仁徳天皇を前例に出しておるのじゃ。どれ一つとっても、令の原則に反し臣下の娘を皇后にする正当な理由にはなり得ないのじゃ。もっともらしい仁徳天皇の前例も、その活躍時期は五世紀中頃じゃから、律令が制定される二百年も前の話じゃ。令の原則を破る前例にはなり得ないのじゃよ。そのため、臣下の不満を抑えようとアシギヌが下賜されたというわけじゃ。

 長屋王の変(本章12項)から半年後、あえて火中の栗を拾おうとする者などおらんかった。ことは藤原氏の思惑通りに運び、藤原氏の権勢は温存できたというわけじゃ。

http://www12.ocn.ne.jp/~koushin/

 
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